こんにちは、今日の夜中の午前1時からセンサリー・アウェアネスの実習は、ステファンさんの事前の案内で、シャーロット没後20年を記念して、彼女が100歳の時、カリフォルニアのロスアンゼルスから海岸線を車でRoute Oneを北上して5時間ほどのサンタ・バーバラで最晩年に行ったワークショップの記録をたどるという企画でした。(Join us on zoom this Saturday, August 19, to share memories and hear stories of Sensory Awareness pioneer Charlotte Selver, who died 20 years ago, on August 22, 2003.)
伊東博先生の命日の1999年8月19日と奇しくも、今日の日程が重なりました。これも何かのご縁でしょうか?今年7月23日の人現会50周年記念総会で、富塚さんと夢ちゃんの3人で本日8月20日の午後に、奥様の伊東俊子さんのお自宅を訪問して、伊東博先生のご仏前に、何かお花でもお届けしましょう。と決めておりました。しかし、台風7号の影響のために、私の田舎の先祖の墓参りが昨日までかかり、本日の午後に私が代表して、俊子さんのご自宅にお花を届けることになりました。
シャーロット・セルバーと伊東博先生のお二人亡きあとも、ご縁が続いていることに、いま生きている私たちへのメッセージを受け取る思いがします。そこで、シャーロットの『センサリー・アウェアネス』を夫のブルックスが著し、伊東博先生のが訳した『センサリー・アウェアネス-「気づき」―自己・からだ・環境との豊かなかかわり』の最後の章に書かれてたことばをここに、いくつかご紹介したいと思います。
「たとえば非常に短い期間でも「センサリー・アウェアネス」の勉強を一緒にやっておりますうちに、そのグループの人びとの間には、お互いに尊敬の気持や愛情が発展してくるのですが、それは他のところではなかなか得がたいものなのです。というのは、私たちは、だれにも共通にある人間性(humanity)の学習をしているのであり、人類がさまざまな文化に分かれる以前の、基本的な人間の属性を勉強しているからなのです。私どものグループでは、「エンカウンター・グループ」のように、言葉のぶつかり合いによるドラマ(それもメロドラマなのですが)をやるようなことはほとんどありませんが、いわゆる普通の意味における技術(techniques)をまったく用いることなしに、豊かな感受性と静かな情動の率直さのなかで、非常に直接的で深い人間の出会いが起こることができるのです。もっと長期のワークショップでは、参加者の多くは、そのコミュニティの人びとと-そのコミュニティが他の面でどんなに保守的であっても-親密な良い関係を作ってしまうのです。というのも、私どもは、自分の行動についての考え方というものを失い始めて、まさに自分の行動はどうであるかを感じ始めているからなのです。
私どものワークショップは、その本質上、すべての制度というもの(institution)をくつがえしたり、その土台を削ったりする傾向があるのですが、それもほんとうは、制度というものが締め出している新鮮な空気と日光をその中に取り入れようとしているにすぎないのです。だれでもその日光を受け容れることができれば、それだけその人は、もっと人間的になったと感じることができるようになります。究極的にはその人は、田舎とともに都市も受容し、都市とともに田舎をも受容し、昼とともに夜をも受容することができるようになります。
前にも申し上げましたが、すぐに喜びを経験するにもかかわらず、私どもの仕事はゆっくりとしかすすみません。注意が散漫になったかと思えば、すぐれた知覚が起こったり、抵抗が起こったかと思えば、何かを洞察したりするのです。注意力が高まったかと思えば疲労がやってきます。その道は平坦ではありません。回り道をする覚悟をしていなければなりません。言い換えますと、私どものセッションは仕事なのであり、練習(discipline)が必要なのです。しかしその練習はリーダーから強制されますと、目的から外れてしまいます。そうでなく、自分自身の存在と体験によって(あるいはそれを欠くときには技術によって)、リーダーは、グループのなかに興味・関心を呼び起こさなければならないのです-それによって人びとの注意を方向づけ、乗り上げた浅瀬を超えさせるのです。ですから、とても楽しい仕事なのですが、難しいしごとをしてるのです。
私たちは自分自身を生き生きとして(aliveness)いなければならないのです-それが他の人をも、目覚ますのです。たとえ、表面的には普通の教育と違っているように見えても-。そのとき私たちは、ただ古い権威を新しい権威に取り替えただけになってしまうのです。
大変興味深いと思う技術を用いてゲームをやって遊んだりすれば、もうひとつの落とし穴に落ちこんでしまいます―つまり、みんなゲームを面白がるでしょうが、洞察はほとんど得られないのです。この二つのわき道のうち、前者は知的な影響力をもっており、ときには政治的あるいは社会的な価値をもつこともあるかもしれません。後者は、人ひとにゆさぶりをかけてある習慣から抜け出させ、開放的と感じられるような新しい喜びのなかに誘いこむかもしれません。
私自身は、数年間教えている間に、この二つのわき道の間を揺れ動いてきました。しかしそれはあたかも、井戸にきれいな水が流れこむ前に、泥水を汲み上げなければならないのと同じようなことなのです。そして泥水も有益なことがあるのだという事実があるからといって、きれいな水を求めるのをやめてしまってもよいということにはならないのです。そしてきれいな水が入って来はじめると(入ってきたり、長い間止まってしまったり、そしてまた入って来たりするのですが)それなまちがいなくやって来るのです。こうしたきれいな水が、グループの人びとの至るところに流れて行きますと-シャーロットは、それがたったひとつの仕事なのだと言いますが-、それは皮膚をとおしてからだの中にしみこみ、人びとを揺り動かして目覚めさせるのです。(同書、286-288頁)
シャーロットから伊東博先生への手紙が最後に紹介されています。「私どものワークが「方法」だとか「技術」として受け取られないように最善の努力をしております。それはただ、人間のまさに自然であるところを覆い隠しているカバーを取りのけるだけのものなのです。あなた(伊東博先生)がそのように感じとっていられることを、私はよく知っております。あなたは、私どもの兄弟のひとりです。有難うございました。-シャーロット・セルバー-」この手紙に対して、伊東博先生は、訳書の最後にシャーロット・セルバーに対して「(私伊東博は、)生涯その方向に成長をつづけたいと思っております。とても励まされております。」とこたえていました。