SAW 2022年11月13日
昨日の早朝11月13日午前2時(ドイツのベルリンで12日土曜日午後5時)から、世話人ヘルガ(Helga Hoenen)先生のワークショップでした。彼女は、1983年からシャーロットのもとでセンサリー・アウェアネスの実習を続けながら1990年に、SAの公認世話人になりました。1997年に、人現会役員の大胡美智子さんのようにフェルデンクライスの世話人(practitioner since 1997 )、さらに2011年からは、健康な人生を送ることができる世話人( Embodied Life Teacher since 2011)として活躍中です。彼女は、西洋の身体療法を勉強しながら、東洋の仏教瞑想法の勉強も行い、シャーロットのことばで「生まれること、生きることの普遍的な権利(“birthright” as Charlotte used to say.)」を支援することができる活動(focuses on sensing life in the present moment and supporting the life giving forces)」をしています。昨日のSAWは、事前に、自分の居る床(地球)に寝ることができるマット(板の間、畳、床に敷く敷物、ベッド、ソファー)等とタオルや手ぬぐいのような柔らかい布を準備して、自分のからだが、横になって、休むことができる場所を準備してください。とアナウンスがありました。
いつものように、昨夜の午前1時45分にZOOMに入りましたら、ホストのステファンさんが、ニューハンプシャーの自宅から同時に入りました。その後、オーストリアのザルツブルグからジゼラ(Gisela)さん、続いてスイスのベルンからジャミラ(Jamila)さんが、次々と参加してきました。ステファンさんも、先週まで、ヨーロッパのドイツを中心に1か月ほど、センサリー・アウェアネスのワークショップを終えて、アメリカに戻ったばかりと話していました。
世話人ヘルガさんの実習テーマでは、「横になって休むこと」でした。最初に、事前に準備した柔らかい布(タオルや手ぬぐい、ハンカチ等)を、柔らかく丸めて、ボールのような形にして、自分のからだの傍に置いてください。(当初は、テニスボールを考えましたが、固すぎるとのことで、変更したことも説明しました。)
「それでは、準備が出来ましたら、自分のからだが、静かに、ゆっくりと休むことができる場所(空間)に、からだを横にして、休んでください。」「自分のからだが仰向けになると、自分のからだが床(マット、敷物、ベッド、畳等を通して地球)に接している感じは、いかがでしょうか?」
「いま、自分のあたまの感じは、いかがでしょうか?もしも、枕等が必要な方は、枕やクッションをあたまと床の間に入れてみて下さい。」「枕の高さも、自分の呼吸が、なるべく自然に、からだの中から、空気(呼気)が出やすいように、枕の高さを調整してください。」「枕の高さが落ち着きましら、自分のアタマ、くび、肩、背中、腰、おしり、モモ、ヒザのうら、ふくらはぎ、カカト、足のつま先の感じは、いかがでしょうか?」「いま、自分の両手は、床の上に置いてありますか?自分の指先と床(地球)に触れている感じは、いかがでしょうか?」「自分の足のうらが、床(地球)に触れることができるように、ゆっくりと、静かに、膝を立ててみることができますか?」「自分のカカトを、しずかに、自分のおしりに近づけて、自分のヒザを立てるようにしながら、自分の足のうらを床(地球)に触れてみると、足のうからの感じは、いかがでしょうか?」「いま、自分のあしのうらに、力を入れて、床をしずかに押してみることができますか?」「自分の足のうらに力を少しずつ入れて、床を静かに、押してみると自分のからだの感じは、いかがでしょうか?」
「いま、自分の背中と床の間の感じは、いかがでしょうか?」「自分の手のひらは、いかがでしょうか?」「手のひらと床の接している感じは、いかがでしょうか?」「いま、手の指先の感じは、いかがでしょうか?」「それでは、また、両足のうらの力をしずかに抜いてみませんか?」
「からだの力を抜いて、楽にしてみると、自分のからだが床(地球)に触れている感じは、いかがでしょうか?」「それでは、自分の手のひらを自分のお腹の上に置いてみると、どんな感じでしょうか?」
「自分の手のひらで、自分のお腹、胸、肩、頸すじ、ほほ、あたまの側頭部、にしずかに触れてみませんか?」「自分のからだと床(地球)の接している感じは、いかがでしょうか?」
「今度は、事前に準備した柔らかい布を丸めたボールを手のひらで触れてみませんか?」「手のひらで柔らかい布のボールに触れた感じは、いかがでしょうか?」「いま手のひらで触れている布のボールを手のひらで持って、自分のお腹の上に置いてみると、自分のからだの感じは、いかがでしょうか?」
「次に、柔らかい布のボールを静かに、自分の胸に置いてみると、いかがでしょうか?」
「次に、柔らかい布のボールを静かに、自分のおでこの上に置いてみると、いかがでしょうか?」
「それでは、柔らかい布のボールを手のひらで持って、自分の腰と床に間に置いてみることができますか?置いてみませんか?」「自分のからだと床(地球)の間にある、柔らかい布のボールの感じは、いかがでしょうか?」「自分のからだのなかに何か変化は、ありますか?」「自分の呼吸は、いかがでしょうか?」「疲れてきたら、また、柔らかい布のボールを腰と床の間から取って、自分のからだと床の間の別の場所に移動してみませんか?」
「例えば、自分のお尻と床の間に、柔らかい布のボールを置くと、からだの感じは、いかがでしょうか?」「柔らかい布のボールを、背中、肩、くび、あたまと床(地球)の間に置いてみると、自分のからだに、変化はありますか?」
「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?自分のからだの感じは、いかがでしょうか?」「ゆっくりと自分のからだが、休むことが出来ましたら、これまでの体験を、参加者のみなさんで、シェアーしませんか?いかがでしょうか?」(注:世話人のヘルガさんが、1つひとつの丁寧なインストラクションに時間をかけた実習でしたので、実習の終わりが午前3時になり、ホストのステファンさんが、慌てて、ZOOM画面で時計の文字盤をヘルガさんに見せていました。終了後、ステファンさんが、1~2人からフィードバックの体験を聴くと、午前3時30分に終了しました。特に、最後の参加者の質問に、「センサリー・アウェアネスの価値は、プライスレス」ですと返答したことが、印象に残りました。)
以上、簡単ですが、昨日早朝のセンサリー・アウェアネスの実習報告です。
11月14日 伊藤稔
SAW 2022年10月23日
今日の早朝10月23日午前1時(カナダのブリティッシュコロンビア州で22日土曜日午前9時)から、世話人ジュディス(Judyth)先生のワークショップでした。ジュディスさんの自己紹介文は以下の通りです。
*Judyth Weaver began studying Sensory Awareness in 1968 and feels she continues to this day. A multifaceted teacher and counselor, with Ph.D. in Reichian Psychology. Creator and founding chair of Santa Barbara Graduate Institute’s Program in Somatic Psychology, teaching at the California Institute of Integral Studies for 25 years; and founding faculty at NaropaInstitute, creating its T’ai Chi Ch’uan program.
She is certified in Reichian Therapy, Somatic Experiencing, massage, Biodynamic Craniosacral Therapy, Pre and Perinatal Therapy, She is senior teacher of T’ai Chi Ch’uan, Rosen Method and Sensory Awareness.
ジュディスの今日の実習テーマは、「手のひらで目を覆う(闇を感じる)こと」でした。友田不二男先生の『かりのやど』(114頁)から引用です。「・・・“妙”なのは-“妙”というのは不思議、不思議というのは、“思議せずだ”と-もう、思議しないでやめりゃいいのですけど、“不思議だ”“不思議だ”と、いっしょうけんめいにまた、人間は思議し出します。これがまた、不思議なんですね。そして、まあ、そういういっさいの不思議が出てくるもともとのところは、この“玄”、暗黒ということでしょう。実は、あの、ロジャーズが、“パーソン・オア・サイエンス(Person or Science?)”という論文をかいております。“人間か科学か”という題で、ロジャーズ全集にも訳してありますが、あの中に、彼、カウンセラーとしての経験の一端を簡単につづっております。その文章の中に、こういう表現があります。「クライエントとともに、真暗な井戸もしくはトンネルの中に入って行く」、という表現があるのです。あの“真暗な井戸もしくはトンネル”へと入って行くというところに何か、こう“玄”という言葉に通ずる“何か”があるのではないか。・・・人間とかく、この“玄”の暗闇のところへ行くと、そこのところでもうジタバタしてしまって、行ききれないで逃げてしまうようですね。ところが、実際にこの“玄のまた玄”まで、-“また玄”まで行くというと、これは、それこそ命がけになってしまうのでしょうが、せいぜいこの“玄”ぐらいのところまで行ってみたら、けっこうこのう、かなたには、今までと違った世界が自然にちゃんと開けてくるのでしょう。(116頁)」
今日の世話人ジュディスさんのしずかな声で「しずかに、できるだけゆっくりと目を閉じてみることができますか?目を閉じてみませんか?(your eyelids coming dwon ?)」ということばで始まりました。
「いま、(自分の中の暗闇は)どんな感じでしょうか?」「自分のからだに何か変化はありますか?」「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」「そのまま、目を閉じたままで、居ることができますか?」「無理に、自分の眼を閉じようとしなくても大丈夫です。あるがまま、自然のままで、居ることができますか?」「充分に時間をとることができましたら、静かに目を開いてみませんか?」
「いま、目を開いてみると、自分のからだに何か変化は、ありますか?」
「ゆっくりと時間をとりながら、静かな時間が訪れましたら、今度は、目を開けたままで、自分の両手で、自分の眼を覆ってみることができますか?」「自分の両目を両手のひらで、しずかに、ゆっくりと覆ってみると、どんな感じでしょうか?」「自分の両手で開いてる両目を覆うと、暗闇が訪れますか?」
「自分の両手で覆われた目で見える、自分の暗闇は、いかがでしょうか?」
「いま、開いている自分の眼を閉じてみることができますか?」「目を閉じて見えてくる自分の暗闇は、いかがでしょうか?」「目を閉じたままで、目を覆っている両手が疲れてきたら、しずかにゆっくりと、両手を下に降ろしても大丈夫です。」「両手のひらの覆いが、無くなったあとも、同じように暗闇は、ありますか?」「いま、自分のからだに変化は、ありますか?呼吸は、いかがでしょうか?」
「それでは、ゆっくりと目を開けて、いま、自分の居る場所のまわりを見てみると、どんな感じでしょうか?」「自分に、何が、観えてきますか?」「いま、何か観ようとしていますか?」
「しずかに、ゆっつくりと休むことが出来ましたら、今度は、今いるところで、坐ったままでも、立ってみても、横になって休んでも大丈夫です。」「両手を、ゆっくりとしずかに、上に伸ばしてみませんか?」「自分の頸すじの感じは、いかがでしょうか?」
「それでは、自分の両手で、自分の頸すじに触れてみませんか?」「いま、目を開けている人は、目を閉じてみると、どんな感じでしょうか?」「いま、目を閉じている人は、目を開けてみると、どんな感じでしょうか?」「自分のからだの感じは、いかがでしょうか?」
「それでは、また、自分の両手で、自分の両目を覆ってみることができますか?覆ってみませんか?」
「今度は、両手で目を覆いながら、自分の口をゆっくりと静かに動かすことができますか?」「自分の口の中の舌は、動くことができますか?」「自分の頭をゆっくりと静かに動かすことができますか?」
「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」
「次に、いま、目を覆っている両手で、しずかにゆっくりと自分の頬に触れてみると、どんな感じでしょうか?」「自分の顔の感じは、いかがでしょうか?」「自分の呼吸は、いかがでしょうか?」
「いま、自分の両手で触れてみたい、ところがありましたら、両手でそのところを触れてみてください。」「いま、自分のからだの感じは、いかがでしょうか?」「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」「どうぞ、時間をじゅうぶんかけて、自分の感じは、いかがでしょうか?」
「それでは、これまでの体験(経験)をみなさんで、シェアーしませんか?いかがでしょうか?」
以上、簡単ですが、今日の午前1時からの世話人ジュディスさんのSAWのご報告でした。
10月23日 霜降 伊藤稔
SAW 2022年10月16日
今日の早朝10月16日午前1時(カリフォルニア州LAサンタモニカ時間で15日午前9時)から、世話人サラ(Sara Bragin)さんのワセンサリー・アウェアネスのークショップでした。サラさんの自己紹介文(9月4日と同じ)は以下の通りです。
My journey to Sensory Awareness began the moment I was born and promised never to lose the gift of being fully alive. Life happened, living became life and four decades passed before I would meet Charlotte Selver. I wanted the vitality I saw in her. She was 91. I followed her everywhere. After she died, I joined a study group with Lee Lesser, which led to my becoming a leader. Committed to passing on the beauty of living aware, I work with writers, individuals and small groups. Ray Fowler insists that my memoir, The Living In Her Dying, is packed with sensing. 私(サラ)のセンサリー・アウェアネスの実習の旅は、私が生まれた瞬間(お母さんのお腹の中に居たときから)始まり、(より良く)生きているという実感(生るということの)贈り物は、自分自身の存在を(永遠に)確かなものにすることを約束してくれました。(私自身の)人生が起こり、私の人生そのものが(生きるということの実感に)つながり、その時すでに、シャーロット・セルバーに会うまでに私の人生の40年が経過していました。 私は、彼女のような活力(生きる力の実感)を求めました。その時、シャーロットは 91 歳でした。 彼女が亡くなった後、私はリー・レッサー(Lee Lesser:先週のSAW世話人)とセンサリー・アウェアネスの勉強会に参加し、それが私をセンサリー・アウェアネスの実習の世話人になることにつながりました。センサリー・アウェアネスの実習を通して、生きることの美しさを実感できることに専念しながら、センサリー・アウェアネスの実習を作家、個人や小グループで実践してきました。レイ( Ray Fowler:先週の日曜日の世話人)さん は、私の回顧録 (The Living In Her Dying :生きていることそれ自体が、死後も意味をもっている)にセンサリー・アウェアネスの哲学が詰まっていると捉えています。)
しかし、私は、昨日の夕方、自分の親知らずを近所のデンタルクリニックで抜歯しました。そのために夜中に起きられず参加が叶いませんでした。そこで、友田不二男先生の『かりのやど』(1994年)からセンサリー・アウェアネスの哲学と通じる箇所を探してみました。以下、友田先生の抜粋です。
(友田先生曰く)「結局、人間は「自分の実感を頼りに」「自分の中から湧いてくるものを頼りに」生きる-そしてそのように生きつづけることそのことが、前記の疑問を「おのずから発見し発掘する」ところに通ずる、ということに、今のわたしくしの中ではなるようです。もっと正確に言えば、これは、わたくしが生きてきた今までの拠り所がそこだったということを、いつの日からか、わたくし自身が意識し自覚していることなのです、と言った方がよいでしょう・・・「わたくしはわたくしの実感にわたくしの人生を委ねた」のです。そして、それについては現在なお、なんの悔恨もないのです。・・・これとは正反対のことがあります。つまり、自分の中から湧いてきた、自分の中にハッキリ感じられていたことに背いたばっかりに、そして、周囲の圧力に妥協したばっかりに、トンダ苦労を背負い込んだ経験的事実を何回となく悔恨しているのです。(34-35頁)」
(友田先生曰く)「自分の中の実感」というその実感をどのようにして自分が認知し自覚するかということ、「自分の中から湧いてくるものを頼りに」まさしく「湧いた」、として覚知すること、これがなかなか大変なことなのでしょう。そしてそれが、大変というも愚かなくらい大変なことなのだ、というところでわたくしは、カウンセリングと結びついているわたしを、ハッキリと自覚するのです。
「・・・今のわたくしに言わせれば、カウンセリングの世界-特に、わたくし自身が20年近くかかわりあっているカウンセリングの世界-それは、まさしく「自分の中の実感」を「自分の中の実感」として「自分の中から湧いてきたところ」として、ハッキリと意識して自覚する世界である、といってよいでしょう。(35頁)
友田不二男先生のカウンセリングは、センサリー・アウェアネスの哲学と通じていることを改めて、自覚しております。 10月16日 伊藤稔
SAW 2022年10月10日
昨日に続いて、今日の早朝10月10日午前4時(ニューヨーク時間で9日の日曜日の午後3時)から、レイ(Ray Fowler)さんのスモールグループ・センサリー・アウェアネス(SGSAW)の実習のワークショップ(日本時間で①10月10日午前4時、②10月24日午前4時、③11月7日午前5時、④11月21日午前5時、⑤12月5日午前5時、⑥12月18日午前5時から1時間30分間)に参加しました。レイさんは、年間を通して、このようなスモールグループによるセンサリー・アウェアネス・ワークショップを隔週4~6回程度で、これまでも年に2~3回主催してきました。私は、今回の世話人レイさんのSGSAWの参加は2回目になります。
早朝の参加者(世話人レイ、スイスのジャミラ(Jamila)さん、ニューヨークのブルックリンのサラ(Sarah)、ドイツのベルリンのサーシャ(Sascha)さん、ドイツのマルセラ(Marcela)さん、リンダ(Linda)さん、ジョージア(Georgia)さん、ケセミア(Ksemia)さん、キャシー(Cathye)さん、ベルギーのジンジャー(Ginger)さん、アダール(Adair)さん、ロスアンジェルスのチェスター(Chester)さん、ナディア(Nadia)さん、ジョイ(Joy22)さん、キャロン(Caron)さん、メキシコシティーのメルセデス(Mercedes)さん、カナダのトロントのルース(Ruth)さん、ルズマ(Luzma)さん、ケスミア(Ksemia)さん、バム(Bam)さん、ピーチ(Peach)さん、私を入れて合計21名のほとんどは、毎週末のSAWへ参加していました。)
今日の早朝の世話人レイさんのSAWのテーマは、「簡単な接触」(シンプル・コンタクトは『センサリー・アウェアネス』(伊東博先生訳)第17章にあります。冒頭文から引用「私どもの参加者が、そのワークショップが終わったあとでも自分ひとりで、感じる実習をつづけていくようにならなければ、私どものクラスを長くつづける値打ちはありません。人生は、限りない探究のプローセスなのだと感じ始めるならば、すべての瞬間が実存の瞬間となり、それ自体大きな意味をもつようになります。・・・生きていることそれ自体が、意味を持ってくるのです。こんなわけで私のクラスでは、ひとりでやる実習をかなりたくさん取り入れているのです。読者のみなさんも、興味と忍耐力がありましたら、同じような実習を家で一人でやってみることができるのです。」シャーロットとブルックスの原文は、以下の通りです。
Simple Contact; Our classes are of no lasting value unless they inspire the student to continue sensing for himself. As one begins to feel the possibility of life’s being an endless exploration, any moment can become a moment of being, full of its own singnificance. At such moments distractions are not needed, or even interpretations. The present experience is sufficient. Living is its own justification. This is why I have given so much space to the experiments in our classes which we do alone, and which the reader can equally try at home if he has the patience and interest.
伊東博先生の『身心一如のニュー・カウンセリング』第9章センサリー・アウェアネス(178-189頁)では、「センサリー・アウェアネス」は、ニュー・カウンセリングの出発点であり、この章の実習はその一部なのだが、ニュー・カウンセリングではその中核をなす実習である。・・・この章で紹介する実習は、センサリー・アウェアネスの創始者、シャーロット・セルバーが1950年代にニューヨークで実施したセッションの記録の内容を私たちにわかりやすように凝縮、簡易化したものである。シャーロットは、実習の妨げにならないように、録画や録音をきびしく制限しているので、シャーロットの実習のすすめ方を具体的に知るには、直接に彼女のワークショップに参加するほかに方法がなかった。実際に、静かなところで、高度に集中して行う実習であるので、カメラのシャッターを切る音、フラッシュ、録音や録画に気をとられることなどは、この実習をほとんど不可能にするので、シャーロットばかりでなく、私たちニュー・カウンセリングのワークショップでも、録画、録音、写真撮影などは、おことわりしている。だから、シャーロットのセッションの記録は、たいへんめずらしいものである。しかし、センサリー・アウェアネスの意義や効用が認められるにつれて、その実践を後世に残して、人々びとの役に立てたいという欲求もまた無視することができない。臨床には、こうした矛盾がいつも付きまとうものである・・・」続いて、同書の181頁では、1ひとりになって(手をひたいに当てる)の実習が紹介されています。①「立って下さい」(足を肩幅ぐらいにひらいて自然に立ってください)・・・気持ちがおちつくまで、時間をとる。)注意:「立ってください」は、命令形のように聞こえるが、前にも述べているように、「立ってみてくださいませんか」という気持ちなのである。②「しずかに両手をゆっくりとひたいに近づけていって、ひたいに当ててみましょう。できましたら、何も考えないでください。(自分を観察したり、判断したりしないで下さい。また、過去のことも未来のことも考えないで下さい。)気持ちが静かになるのにまかせておいて下さい。(かなり時間をとる)」
(伊東博先生の注は、①も②も、非常にゆっくりと時間をとるようにする。ニュー・カウンセリング全体がそうであるが、とくにこの実習は、ゆっくりと時間をかけてすすめる。とくに①と②で、ゆっくりと時間をかけるのだ、という感じが、参加者に直接に伝わるようにする。「手をひたいに当てて下さい」というと、いきなりパッと手を上げるのが、普通であるので、そういうものでないことが理解されるように充分に注意する。)
- 片方の手をゆっくりとひたいに近づけていって、ひたいに当ててみましょう。(少し時間をとる)ひたいに手を当てると静かな気持ちになれますか。目線を下にして、目をらくにして下さい」(時間をとる)伊東博先生の注:手をひたいに当てている時間が、ゆっくりと長くなると、手がつかれてしまう人もあるようである。長すぎるとイライラする人もあるだろう。そこの見極めが大事であるが、「手を変えてもよい」と伝えてもよい。
- 「そろそろいいと思ったら、ゆっくりと手を離して下さい。いま、何が起こっているか、感じて見てください」(充分に時間をとる)。
- 「もう一方の手のひらをひたいに当てて下さい。気持ちがもっと落ちついて、静かになったでしょうか?その静かな気持ちのなかで、何が起こっているか、感じてみてください」(時間をとる)。
- 「静かに目を閉じて下さい。心のなかに何が起こっていますか?たくさんのことが起こっていますか?邪魔しないで、起こるままにしておいてください。何が起こっているか、わかった人は手を上げて下さい」(手を上げる人は、少ないかもしれませんが、それはかまわない)。
このようにニュー・カウンセリングの中のセンサリー・アウェアネスの実習(自分のあたまにふれる実習)の流れが紹介されているが、今日の早朝の世話人レイの実習もまた「自分のあたまにふれる(シンプル・コンタクト)」内容とほぼ同じ実習でした。
レイさんの実習では、坐ったまま(画面では立っている人もありました)で、自分のあたまに手のひら(指先)で触れる前に、手のひらを自分のあたまに近づけること(私は手のひらが自分のあたまに近づくだけで、自分の手のひらの暖かを感じました)を何回か行った後、頭に触れました。その後、自分の指先で「あたまをタッピングする」を行いました。最初は、鐘を鳴らすように「一回、ポーンと指先で、自分のあたまを鳴らすようにたたいてみて下さい。」何回か、ポーンを頭を軽くタッピングした後、ニュー・カウンセリングの朝の目覚めでやる、指先のタッピングをあたま、顔、頸、肩、旨、背中、お腹、下腹からお尻、脚からヒザ、すね、踵、脚の甲からつま先まで、全身のタッピングを行いました。
自分のからだの全体のタッツピングが終わりましたら、全体のフィードバックを行いました。続いて、こんどは、「立つこと」(coming to standing, only if you want to allow)ができる人は、立っている、いまいる部屋(野外)の中を、できるだけしずかに歩いてみるませんか?」というおさそいの言葉でした。坐ったままでも、からだを横にして休んでいる姿勢でも大丈夫です。しずかな気持ちの中で、自分のからだの感じは、いかがでしょうか?」「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」「いま、自分のからだが、動きたいように、動くことができますか。」「自分のからだが、充分に動くことができましたら、また、もとのところに戻って、これまでの体験をみなさんで、シェアーしませんか?」「どんな体験がありましたか?いかがでしょう?」
以上、簡単ですが、今日の早朝の世話人レイさんのスモールグループでのセンサリー・アウェアネスの実習報告でした。
10月10日 伊藤稔
SAW 2022年10月9日
今日の日本時間で10月9日午前1時(ニューヨーク時間で1日の土曜日の正午12時)の週末センサリー・アウェアネスの世話人はスーザンさんでした。彼女の自己紹介文は次のようでした。
My first Sensing workshop with Charlotte Selver and Charles Brooks was in 1970 on Monhegan Island. Not only did I turn 19 that summer, but I felt this was the true beginning of my life – my embodied life.
And so followed the next 20 years. I explored spiritual traditions and worldly occupations until I settled into the profession of Physical Therapy, with the thought that it would be a platform for Sensory Awareness. I had kept intermittently in touch with Charlotte and Charles over these years but re-entered deeply into Sensory Awareness practice in 1987.
In my professional life, my practice took a quantum leap forward when I encountered the Postural Restoration work of Ron Hruska in 2002. This tri-planar, asymmetrical understanding of wholistic human function reorganized and integrated the respiratory and neurological drivers of our experience of bodies. Sensing and breath have become key components of rebalancing systems.
1970年、私が初めて参加したシャーロット(Charlotte Selver)とチャールズ(Charles Brooks)のセンサリー・アウェアネス・ワークショップはモンヒーガン島でした。その夏、私はちょうど19 歳になっただけでなく、シャーロットのワークショップに参加したことが、私自身の人生の真の始まりになりました。その後20年間は、センサリー・アウェアネスの哲学を基礎として、私は(第三の心理学と呼ばれるような)スピリチュアルな心理療法や世俗的な職業を探求し、身体療法の専門職(the profession of Physical Therapy)に落ち着きました。その間、私はシャーロットとチャールズと断続的に連絡を取り合っていましたが、1987 年、再びシャーロットのセンサリー・アウェアネスの実習に再び深く学び始めました。
私の心理療法家としての生活において、(シャーロットが亡くなる直前)2002 年に Ron Hruska の Postural Restoration の研究会に参加したことで、私の実践は飛躍的な進歩を遂げました。この 3 平面的で非対称的な人間の全体的な機能の理解は、私たちの身体の呼吸と神経の原動力を再編成し、統合しました。(人間の身心一如の )感覚と呼吸は、からだのバランスを取り戻すための重要な要素になっていることに気づきました。
注:ロン・ハラスカ(Ron Hruska) のPRI( Postural Restoration Institute)は、日本に、すでに活動拠点(https://www.prijapan.llc/concept)があります。PRIの基本的な人間の身体観として、「人体は左右対称ではない。神経系、呼吸器系、循環器系、運動器系、そして視覚器等、身体の左側と右側は同じではない。これら器官は様々な場所に位置し、個々に責任、機能、そして需要がある。この左右非対称のシステムデザインは素晴らしいものであり、人体はこれらシステムの不均衡をインテグレーション(統合)することによってバランスが保たれている 。例えば体幹では肝臓が右側に、心臓が左側に位置する事によってバランスが取られている。そして四肢の優越は相反性機能によって保たれている。」という説明がありました。西洋的な(人間機械論的な)人体システム論が、センサリー・アウェアネスの東洋的な身体観とどのように整合性があるのか?一度、スーザンさんへ聞いてみたいと思いました。)
この文章を読んでしまったためか?今日の午前1時に私は、目が覚めませんでした。しかし、明日の月曜日10日(祝・月)午前4時から、先週の世話人レイさんのスモールグループでのセンサリー・アウェアネスの実習の案内を受け取りましたので、そのご報告をしたいと思います。よろしくお願いいたします。
10月9日 伊藤稔
SAW 2022年10月2日
今日の日本時間で10月2日午前1時(ニューヨーク時間で1日の土曜日の正午12時)の週末センサリー・アウェアネスの世話人は第一世代のレイ(Ray Fowler)さんでした。レイさんの自己紹介文は、以下のように記していました。
I have been a student of Sensory Awareness since 1970 and studied with Charlotte Selver for thirty-two years. The practice of Sensory Awareness continues to show me a potential in living which I did not know existed until I became deeply moved by its simple power. It has had a profound influence on how I meet the world today. I continue to offer retreats each summer on Monhegan Island (ME). Previously, I gave sessions at The Gestalt Institute of New York, Ohio University and Johns Hopkins University. Furthermore, I have had an inspiring life as an orchestral conductor and a forever-surprised father.
私レイは 1970 年から恩師シャーロット セルバーのもとで、センサリー・アウェアネスを32 年間学び続けてきました。(シャーロット亡き後、今まで、さらにこれからの私の一生涯を通して)センサリー・アウェアネスの実習は、(日々是好日の中で)私自身が、すでに生まれた時から(お母さんのお腹に中にいた時から、自分の存在そのものが、自分の中にすでに備わっている自律的な生きる力と他律的な生かされている力)その単純な力に、シャーロットのセンサリー・アウェアネスの実習を通して、気づいたこと。それまで、私が、自分の存在すら気にも掛けずに、生活してきた自分自身が、シャーロットとの出会いを通して、自分の人生そのもの、自分や他者、自然や文化も含めて、今ある自分とまわりの世界との出会いに大きな影響を与え続けています。私はモンヒーガン島 (ME;メイン州) で毎年夏のセンサリー・アウェアネスのワークショップを通して、常に自分自身が変化し、ふたたび生き返ることを続けています。これまで私は、ニューヨークのゲシュタルト研究所、オハイオ大学、ジョンズ・ホプキンス大学でワークショップを行ってきました。さらに、私はオーケストラの指揮者として、また、永久にドキドキ(ちむどんどん)している父親として、刺激的な毎日(人生)を送っています。
今日のレイさんの最初の導入は、鐘(かね)の音(よく日本の家のお仏壇に置いてあるチーンと音を発てる鐘;浄土真宗では鏧(きん)、浄土宗では小鏧(しょうきん)、日蓮宗では鈴(りん)等と呼ばれているようです)を聴くことでした。「いま、鐘の音の響きが届いていますか?」「鐘の音のバイブレーションを感じていますか?」「鐘の音の響きが自分のからだの中へ、伝わっていますか?」「いま、自分のからだは、鐘の音の響きに、応答していますか?」(注:伊東博著『身心一如のニュー・カウンセリング』(誠信書房、1999年6月)228頁から引用「・・・とくに鐘を鳴らすのが、宗教的だという批判めいた質問もでるかもしれない。宗教というものがどんなものであるか、を考える機会になってもよいであろう。ただ、日本の社会では、学校でも社会生活でも、宗教について考える機会が少なすぎるかもしれない、と思う。・・・アメリカの禅センターなど、禅寺で(センサリー・アウェアネスの実習が)行われることが多かったし、実際にその内容は、坐る、立つ、ねる、歩く(行住坐臥)というった禅宗の修行の影響をつよく受けているので、そうした場所のほうが、この(センサリー・アウェアネスの)実習にふさわしいかもしれない。・・・(ナチス支配下の)ドイツで生まれ、アメリカで仕事をしたシャーロットは、私たちよりも、もっとずっと東洋的な感じのする人なのである。」)
「それでは、自分の両手の指先で、ゆっくりと静かに、そっと自分のほほに触れてみませんか?」
「(充分に時間を取って)自分の腕が疲れてきたら、しずかにゆっくりと自分のほほから自分の指先をはなしてみませんか?」「自分の指先が離れたあとのほほの感じは、いかがでしょうか?」
「両腕を下に降ろして、充分に休むことができたら、今度は、目を閉じて、自分のまぶたに触れてみませんか?」「触れる準備ができましたら、できるだけゆっくりと静かに、自分の指先で、自分のまぶたに、そっと触れてみませんか?」
「充分に自分のまぶたに触れることができましたら、次に、自分のあたまの両側に触れてみませんか?」
「自分のあたまに触れることで、じぶんのからだの感じに、何か変化がありますか?」
「両手・両腕が疲れてきましたら、また、静かに両手を下に降ろして、休んでください。」
「ゆっくりと、両手が休むことが出来ましたら、今度は、自分の両手の指先を、自分のまつ毛に、近づけてみませんか?」「準備ができましたら、自分の両手の指先を、ゆっくりと静かに、自分のまつ毛に近づけて(触れないで)みると、どんな感じでしょうか?」「自分の指先が、自分のまつ毛に近づいたかんじは、いかがでしょうか?」「いま、直接指先でまつ毛に触れなくても、自分の両手の指先を感じていますか?」「自分の顔の感じは、いかがでしょうか?」「自分の指先は、いかがでしょうか?」
「それでは、自分の指先で、自分のまつ毛に、そっと静かに、触れてみると、どんな感じでしょうか?」
「いま触れているまつ毛に充分に触れることができましたら、自分のまぶたから、ほほ骨、ほほ、自分の頸すじ、あたまの後ろ側、頭頂部にゆっくりと触れてみませんか?」「充分に、自分の顔に触れることができましたら、また、両手を下に降ろして、休んでください。」
「両手が十分に休むことが出来ましたら、今度は、自分の両手の指先から手首までを、ゆっくりと動かしてみませんか?」「自分の両手を、ぶらぶら、あちらこちらに、ゆすって、動かしてみる、両手の感じは、いかがでしょうか?」「両手の手のひらの動きは、リズミカルでしょうか?」
「今度は、自分の肘から手のひら、手の指先までを、ゆっくりと、ぶらぶら、あちらこちらに、ゆすって、動かしてみると、どんな感じでしょうか?」「自分のペースで、両手の肘から先が、動いている感じは、いかがでしょうか?」
「いま、動いている両手の肘から指先までを、今度は、自分の肩から、肘、手首から指先まで、ゆっくりと、ぶらぶら、あちらこちらに、ゆすって動かしてみると、からだの感じは、いかがでしょうか?」
「もしも、立って、やってみたい方は、立って、自分の両腕から両手の先までを、あちら、こちらに、ぶらぶらと動かしてみると、からだの感じは、いかがでしょうか?」
「両腕が、疲れてきたら、また、両腕をゆっくりと下に降ろして、休んでください。」
「自分の両手が、充分に休むことが出来ましたら、今度は、自分の両手のひらを、ゆっくりと、しずかに、蝶々のように、バタフライのように、ひらひらと、動かしてみることができますか?動かしてみませんか?」「自分のからだの前で、両手のひらを、蝶々のように、ひらひらと動かしている両手を、ゆっくりと、自分のあたまの方へ、近づけて、指先の蝶々のひらひらの動きに、まかせて、自分のあたまをタッピングしてみませんか?」「両手の蝶々のような、ひらひらした動きで、自分の顔、頸すじ、肩をタッピングしてみると、どんな感じでしょうか?」(注:ここでまた、鐘の音が聴こえてきました。)
「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」「自分の両手の指先、からだの感じは、いかがでしょうか?」「いま、自分のからだが立ちたければ、立って、指先で自分のからだをタッツピングしても大丈夫です。」「いま、自分の両腕が、疲れてきたら、また、ゆっくりと元のところに戻って、休んでください。」「いま、鐘の音が、自分のからだに響いていますか?」「自分のからだの感じは、いかがでしょうか?」「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」「それでは、いままでの体験(経験)を、みなさんで、シェアーしませんか?」「いかがでしょうか?」
以上、簡単ですが、今日の夜中1時からのレイさんのセンサリー・アウェアネスの実習報告でした。
10月2日 伊藤稔
SAW 2022年9月18日
今日の日本時間で9月18日午前1時(メキシコ時間で17日の土曜日の午前11時)の週末センサリー・アウェアネスの世話人はメキシコ・シティーのマリエーラ(Mariela Valdez)さんでした。彼女の自己紹介文は、以下の通りです。Mariela Valdez, Logo-therapist and Sensory Awareness practitioner since 1998. Student of Charlotte Selver and Lee Klinger Lesser. I found this practice full of opportunities of exploring who I am and how do I respond to what each moment is asking, and the most important discovery, where I am responding from. Offering this rich soil with others is something that I deeply honor and bow to. (マリエーラ先生は、メキシコで言語療法士として活躍しながら、カリフォルニアで、シャーロット先生が亡くなる5年の前の1998年から、シャーロットやリー・クリンガー・レッサーさんのセンサリー・アウェアネス・ワークショップに参加して、シャーロット先生の最晩年まで、センサリー・アウェアネスを直接学びました。このセンサリー・アウェアネスの実習は、(マリエーラさんにとって)自分とは何か?(自分が誰であるか)、生きている限り(その死後まで?)、この一瞬、一瞬間ごと、自分の存在(いのちのあるがまま)に、自分の身心一如が、どのように在るのか、そして、最も重要な気づき(発見)、つまり自分自身の身心のどこから、自ずから、己のいのちが応答(自律)しているか、を探求する機会に満ちていることに気づきました。この豊かな土壌(センサリー・アウェアネスの実習の機会)を参加者に提供することは、私の心からの喜び(尊敬)であり、ただただ、自ずから自分のこうべが垂れる(敬服する)ことです。注:マリエーラ先生は、メキシコシティーの中学校や高校で、現在、スペイン語も教えています。)
今日のZOOMホストは、カナダのトロント郊外にお住まいのルース(Ruth Kerr)さんでした。はじめにルースさんが世話人マリエーラさんを紹介して、事前のアナウンスで石を準備しているか確認してから、センサリー・アウェアネスの実習が始まりました。
最初は、マリエーラさんの静かな声で「いまこのときに、あなたはどこに居ますか?(where are you in this moment?)」「いま、このときに、何をしていますか?(what are you doing right now?)」
「息をしていますか?」「座っていますか?」「立っていますか?」「横になって、体を休めていますか?」「いま、何をしていますか?(now are you doing this?)」
「それでは、ゆっくりと静かに目を閉じることができますか。目を閉じてみませんか?」
「目を閉じていても、いまここに居ますか?(are you being this?)」「あなたの呼吸は?」「あなたの肩のまわりは?」「背中は?」「くびは?」「あたまは?」「お尻は?」「足のうらは?」「おなかは?」「あなたの呼吸は、いかがでしょうか?」
「次に、からだの感覚に、変化(invitation)が訪れましたか?(next invitation come ?)」
「自分のからだの変化(invitation)に、自分のからだが開いて(気づいているか?受け入れているか?)いますか?(how open to change?)」
「自分のからだの変化(からだの動きやからだの動き)に気づいていますか?」
「自分のからだの動きを、予想していますか?(something expecting?)」
「自分のからだの動きに、逆らわずに、そのままで居ますか?」
「あなたの腰は?」「あなたの肩は?」「あなたの呼吸は?いかがでしょうか?」
「いま、あなたのからだの最も大きな変化は(the biggest invitation of your own)?」
「次の瞬間(next moment where you are)、自分のからだは、どこに居ますか?」
「あなたのからだは、どんな感じですか?(how you are in this moment?)」
「できるだけ、ゆっくり時間をかけて、自分のからだのまわり(around you)のスペースは、自分とかかわりが在りますか?」「自分のからだの内側のスペース(inner space)は、いかがでしょうか?」
「それでは、これから立つことができますか?(come to standing)、あるいは、坐る(sitting)ことができますか?あるいは、横になった休むこと(lying)ができますか?」
「いま、自分が立つことができましたら、ゆっくりと静かに、自分のからだの上体を、地球の重力(gravity)にませてみませんか?」
「自分のからだの上体が、ゆっくりと静かに、重力にまかせて、下に降りるところまで、降りたら、上体を地球の重力に委ねてみませんか?」
「いま、どんな感じでしょうか?(how are you now this invitation?)」
「あなたのからだは、開いていますか?(openness to your body)」
「あなたの肩は?」「呼吸は?」「おなかは?」「くびは?」「あたまは?」「背中は?」「腰は?」「足は?」「あなたの時間を充分にとって、あなたのからだの変化を受け入れていますか?」
「自分のからだの変化を感じていますか?」
「充分に自分のからだの上体を重力に委ねることができましたら、また、自分のからだの上体をゆっくりと上に、しずかに起こしてみませんか?」「いま、自分のからだの上体が、上に起き上がって、元のところまで、戻りましたら、今度は、事前に準備した自分の石を片方の手で持ってみませんか?」
「いま、手に持った自分の石の感じは、いかがでしょうか。」
「それでは、片方の手で石を持ったままで、自分のからだの上体を、しずかに、ゆっつくりと、重力にませて、下に降ろすことができますか?降ろしてみませんか?」「自分のからだの上体が、下に降りるところまで、降りましたら、片方の手に持っている石を、両手で持ってみると、からだの感じは、いかがでしょうか?」「自分のからだが感じている重力は、いま、いかがでしょうか?」
「いま、あなたの呼吸は?」「あなたの肩は?」「あなたの腕は?」「あなたの背中は?」「あなたの頸は?」「あなたの頭の感じは、いかがでしょうか?」
「いま、あなたは、自分の呼吸に、開かれていますか?(openness to your breathe?)」
「あなたは、必要なだけ充分に時間をかけて、ゆっくり休んでみることができますか。休んでみませんか?」「いま、自分自身の体験を充分に受け入れていますか?(your experience in this moment)」
「あなたの呼吸は?」「あなたのからだから、あなたへのギフトは、ありますか?」
「いま、あなたが地球の重力を感じることができましたら、また、ゆっくりと自分のからだの上体を、静かに、ゆっつくりと、上に持ち上げて、元のからだのところまで戻ってみませんか?」
「いま、あなたのからだは援助的ですか?(helpful)」「からだの感覚はいかがでしょうか?」「あなたの呼吸は、いかがでしょうか?」「あなたの呼吸は、あなたを支えていますか?」
「いま、自分の上体が起き上がることができましたら、今度は、いま手に持っている石を、ゆっつくりと上に持ち上げてみることができますか?ゆっくりと、静かに、手にもっている石を上に持ち上げてみませんか?」「両手でも片手でも大丈夫です。手に持っている石を上に、上がるとことまで、持ち上げてみると、からだの感じは、いかがでしょうか?」「自分のからだが、地球の重力を受け入れていますか?」「いま、手に持っている石の重さを感じていますか?」「いま、あなたの呼吸は、いかがでしょうか?」「あなたの肩の感じは、いかがでしょうか?」「あなたの片方の、または、両腕の感じは、いかがでしょうか?」「あなたの背中の感じは、いかがでしょうか?」「あなたの頸のまわりの感じは、いかがでしょうか?」「あなたの頭の感じは、いかがでしょうか?」
「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」「それでは、ゆっつくりとしずかに、いま手で持っている石を、重力にまかせながら、下へ降ろして、降りるとろまで、降ろして、石を元のところに置いてください。」「自分の石を手から離してみると、いま、からだの感じは、いかがでしょうか?」
「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」
「それでは、これまでの体験(経験)を、みなさんでシェアーしませんか?」「いかがでしょうか?」
以上簡単ですが、今日の真夜中の世話人マリエーラさんのセンサリー・アウェアネスの実習の報告です。この実習が始まるときに、マリエーラさんから先週の土・日曜日のワークショップにミノルはいなかったけど、どうしたの?と声を掛けられました。実習中、ニューヨークのブルックリン在住のフィリス(Pyllis)さんからも、チャットで今日はミノルの顔が見えて良かったと呟かれました。自分の知らない間に、参加者の多くの人に私の顔と名前が受け入れてられていることに、ほっこりとした気持ちになりました。
9月18日 伊藤稔
SAW 2022年9月4日
今日9月4日の夜中午前1時からのセンサリー・アウェアネスの実習は、ロスアンゼルス市サンタモニカ在住のサラさん(Sara Bragin)でした。以下は彼女自身の紹介文です。
My journey to Sensory Awareness began the moment I was born and promised never to lose the gift of being fully alive. Life happened, living became life and four decades passed before I would meet Charlotte Selver. I wanted the vitality I saw in her. She was 91. I followed her everywhere. After she died, I joined a study group with Lee Lesser, which led to my becoming a leader. Committed to passing on the beauty of living aware, I work with writers, individuals and small groups. Ray Fowler insists that my memoir, The Living In Her Dying, is packed with sensing.(サラさんも前回のリチャードさん、レイさんやジュディス先生と同じ世代(現在80歳後半)の世話人です。)
サラさんは、シャーロットの言葉から始めました。「センサリー・アウェアネスの実習の参加者は、ワークショップが終わったあとでも、自分ひとりで「感じることの実習」をつづけていくようにならなければ、私どものセンサリー・アウェアネスの実習を長く続ける値打ちはありません。人生は限りない探究のプロ―セスなのだと感じ始めるならば、すべての瞬間が実存の瞬間となり、それ自体大きな意味をもつようになります。こうした瞬間がやってくるならば、気晴らしなどといったようなことも必要ではなくなりますし、精神分析でやるような解釈(interpretations)などといったことも必要ではなくなるのです。生きていることそれ自体が、意味をもってくるのです。(以上は、伊東博先生訳『センサリー・アウェアネス』の17章シンプル・コンタクト(Simple Contact)の冒頭の引用(143頁)です。以下ブルックスの原文:Our classes are of no lasting value unless they inspire the student to continue sensing for himself or herself. As one begins to feel the possibility of life’s being an endless exploration, any moment can become a moment of being, full of its own significance. At such moments distractions are not needed, or even interpretations. The present experience is sufficient. Living is its own justification. This is why I have given so much space to the experiments in our classes which we do alone, and which the reader can equally try at home if he or she has the patience and interest.)」
(注:私は、これまで3年あまりZOOMによるセンサリー・アウェアネスの実習を自宅で、週末土曜日の夜中(日曜日の明け方)に1人で参加してきましたが、決して孤立感がありませんでした。むしろ、まいかいセンサリー・アウェアネスの実習に集まる世界中の参加者との絆を感じてきました。参加者のひとりひとりが、いま、自分の生きている場所(部屋や庭や郊外)からの参加です。不思議なことに、一度も直に対面していない、ひとり一人の参加者に、親近感を抱くようになりました。不思議です。)
今日の世話人サラさんの静かな声で、「わたしたちは、いつでも、いま、ここに、存在しています。(Every moment is always to be present.)」「いま、自分の呼吸を感じていますか?」「いま、自分の呼吸に、特別なことがありますか?(Your breathing is anyway, but is there something special ?)」「いま、自分のなかに何か聴こえてくるものがありますか?」「いま、自分の眼に何か、観えてくるものがありますか?」「あるいは、いま、自分が、耳で何かを聞こうとしていますか?あるいは、自分の目で、何かを見ようとしていますか?」
「もしも、目を開いている人は、目を閉じてみると、いま聴こえているものは、どこからやってくるか、感じることができますか?」「目を開いている人は、目を閉じてみると、まだ、自分のまぶたの中に何かを観ていますか?」
「自分のなかに、しずかな感じが訪れましたら、自分の手を(片方でも両手でも大丈夫です。)しずかに、ゆっくりと自分のあたまの上に近づけてみることができますか?近づけてみませんか?」「頭に、自分の手のひらを近づけてみると、自分のあたまの感じは、いかがでしょうか?」「自分のあたまの感じは、自分の手のひらが、自分のあたまに近づいてくると、何か変化はありますか?」
「自分の手のひらで、自分のあたまの上に触れる準備ができましたら、しずかに、ゆっつくりと、触れてみませんか?」
「いま、自分の手のひらで、自分のあたまに触れると、からだの感じは、いかがでしょうか?(Can be present right now ?)」「いま、自分の呼吸に変化はありますか?」「いま、自分が椅子に坐っている人は、立つことができますか?または、からだを横にして休む、または、歩るくことができますか?(become just simply to sitting, standing, lying or walking)」「自分のからだの姿勢が変化してみると、からだの感じは、いかがでしょうか?」
「そうぞ、いま、じぶんの居る場所で、自分のからだの姿勢を変えてみると、からだの感じは、いかがでしょうか?」「いま、自分の呼吸に何か、変化はありますか?」
「あなたの手が疲れてきたら、下に降ろして、ゆっくりと手が休んでみませんか?」
「自分の手が、ゆっくりと休むことができましたら、いま、居る場所で、自分が触れてみたいものに触れてみませんか?」
「わたしたちは、いつでも、どこでも、一人で生きているあわけではありません(we do not live alone.)。いま、自分の手のひらが、何かに触れていることもシンプル・コンタクトの1つです。(we come into some kind of relationship.)」
「赤ん坊は、ほとんどその誕生の瞬間から、動と静のリズムの中に生まれてくるのです。
(Almost from the moment of birth, a baby’s life falls into a certain rhythm of action and quiet.)」
「なかでも最も大事な、きっと最も変化に富んだ部分は、母親とのふれ合いのなかにあると思います。(the most significant and certainly, I suppose, the most variable, part is in connection whith his/her mother.)」
「実際に触れることがあっても、無くても、こうしたふれ合いは、若い時とか年老いたときには多いのです。(With or without actual touch, such communion occurs more often in youth and in old age than in the prime of life.)」
「いま、自分の手のひらで触れているものに、充分に触れることができましたら、また、つぎのものに触れてみることができますか?」「こんどは、どんなかんじでしょうか?」「自分のからだの感じは、いかがでしょうか?」「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」
「自分のこころを充分に静めたままで、自分でものに触れている感じは、いかがでしょうか?(He or She has come to quiet standing or sitting or lying and is ready to be approached, in such a way as not to disturb, yet without diminishing your connection to it.)」
「いま、じゅうぶんにシンプル・コンタクトができましたら、また、さいしょに居た場所にもどり、これまでの体験をみなさんで、シェアーしませんか?いかがでしょうか?」
以上簡単ですが、今日の午前1時からの世話人サラさんのセンサリー・アウェアネスの実習のご報告です。
9月4日 伊藤稔
SAW 2022年8月28日
今日8月28日の夜中のセンサリー・アウェアネスの実習は、カリフォルニア州サンフランシスコ近郊のベイ・エリアのアラメダ市在住のリチャード(Richard Lowe)先生が今日の世話人でした。彼は、自身のHPで「Fuller Sense; Rediscovering Our Truer and Deeper Nature Explorations in Sensory Awareness, Mindful Movement and Journal Writing(観自在:センサリー・アウェアネスにおける自分のまわりや内なる自然の気付き、マインドフルな自己の再発見の旅)」を標語に掲げて活動しています。https://www.fullersense.com/。事前の案内メールでは、タオルや手ぬぐいのような布を準備してくださいとのことでした。
リチャードさんのしずかな声で始まりました。
「私が、今、より今、を生きていること(becoming more presence to me)」
「今を生きている、ことを感じていますか?(feeling on being presence?)」
「あなたのまわりのスペースを感じていますか?(feeling space around you?)」
「あなたの呼吸は、いかがでしょうか?(breathing in yourself ?)」
「あなたの落ち着いた自分のからだの状態、静かなこころ(感情)、あるがままで居ますか?(more settled mind and body?)」
「もう少し、いまここで、楽にして居ることができますか?(little more presence and relaxing ?)」
「自分の手のひらで、自分の頸を静かに触れる準備ができますか?」
「準備ができたら、自分の手のひらで、自分の頸を触れてみることができますか?」
「十分に触れることができたと、感じたら、また、自分のからだの別のところに触れてみることができますか?」「からだの異なる動きが、わかりますか?」「からだの動きの感じは、いかがでしょうか?」
「両手で、新しくゆっくりと、自分のからだに、静かに触れてみることは、できますか?」
「新しい感触は、いかがでしょうか?」「いま、どのように触れていますか?」
「背中の感じは、いかがでしょうか?」「あなたの呼吸は、いかがでしょうか?」
「あなたのからだは、どのように繋がっていますか?(how connection in you ?)」
「いま、あなたのからだに、何が起こっていますか?(what’s happen in you ?)」
「自分の手の指先の感じは、いかがでしょうか?」
「こんどは、事前に準備したタオルや手ぬぐいのような柔らかな綿布を手の指先で触れてみませんか?」
「いま触れている綿布で、ゆっくりと静かに、自分の頸すじに触れてみませんか?」「自分の手のひらで、自分の頸すじに手の指先で触れた時と、いま綿布で触れている感じは、いかがでしょうか?」「自分の頸すじから、あご、ほほ、鼻、おでこ(額)、耳、耳の裏側、あたまを綿布で触れると、どんな感じでしょうか?」「自分で感覚しようと努力しても、それは無駄な努力です。(to seek for sensation is to seek for the pot of gold at the foot of the rainbow, and the emotional release that is sought for is elusive and obscure.)」(伊東博先生『センサリー・アウェアネス』の訳注では、鈴木大拙『禅と日本文化』(岩波新書、初版1940年)から、「水中の月とはどういう意味であるか。」「剣道の各流儀では、いろいろに説明されているが、要するに、水のあるところ、いかなるところにも、月が「無心」の状態で映る、その映りかたを会得することである。嵯峨の広沢の池の畔で詠まれた御製の一つに、“うつるとも月はおもわず、うつすとも水はおもわぬ広沢の池“を紹介していました。著者のチャールズ・ブルックスさんは「禅佛教でいわれているように、水が静かになれば、月ははっきりと映るのです。(as in the Zen saying, the waters can become still and the moon be reflected clearly.)」の紹介もしていました。
さらに、同書133頁では、「人間は、孤独に生まれて孤独に死んでいくものだ、ということがよくいわれていますが、それはあまり当たっていないことです。(It is often said that we are born and die alone, but this is hardly true. The Navajos, when they felt their time had come, did indeed ask to be escorted to some lonely place which they had chosen, where garewells were said and they were felt alone to spend their final hours undisturbed, coming to peace with the surroundings.)」
「自分の手のひらで持っている綿布で、自分のからだの触れてみたいところに、触れてみませんか?」
「いま、自分のからだが(身心)が、自然に調整(tuning up)していますか?」「いま、自分の身心は、より自由な許容された環境(more permissive support very free)にありますか?」
「まだまだ自分は、生きていても、いいんだ(being ready tuned still alive)と感じていますか?」
「いま、自分のからだが、解放されて、自由なかただの動きやリズムが(ダンス)(emotional dance, just be free)起こっていますか?」「自分自身のからだが、動きたくなったら、どうぞ、からだが動いても大丈夫です。」「自分の持っている綿布の感じは、いかがでしょうか?」
「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」
「疲れてきたと感じたら、また、もとのところに戻って、休んでみませんか?」
「それでは、これまでのみなさんの体験をみんなで、シェアーしませんか?」
以上簡単ですが、昨日のリチャードさんのセンサリー・アウェアネスの実習のご報告です。
8月29日 伊藤稔
SAW 2022年8月21日
今日8月21日お盆休み明けの夜中のセンサリー・アウェアネスの実習は、メキシコ・シティー在住のメルセデスさん(Mercedes Lopez)でした。事前の案内メールでは、大きさの異なる2つの石を準備してくださいとのことでした。彼女は、2020年11月22日、2021年3月7日、7月18日、10月17日、2022年3月27日に続き今日で6回目の世話人をつとめます。先週の世話人ペニーさんと同世代(1930年代生まれ)で、1979年からシャーロットのセンサリー・アウェアネス・ワークショップに参加して、心理学や日本の禅佛教を学んできたとのことです。
今日の「石の実習」は、シャーロット&ブルックス著で伊東博先生訳『センサリー・アウェアネス』第21章「下に向かって・上に向かって(186-192頁)」で紹介されています。以下にその章のイントロを原文(132-136pp.)で少しご紹介します。21. DOWN AND UP; What is it that we have discovered so other things, the stone had temperature, form, and weight, each of which properties was perceived according to our own condition. To each of these aspects of its existence we have corresponding modes of sensing is effective. We have been working mainly with weight, and we found that when our attitude to the stone changed, the sensation of its weight changed correspondingly. But this was not true of the direction in which its weight led us. Whether the course we followed seemed irregular or slanted to those who watched us, to us it always seemed down. If our sense of direction does not agree with others, there must somewhere be an impairment of perception. For if we let the stone drop, it is clear to everyone, including ourselves, that it falls in one direction only. Our impairment is evidently not visual, or in our sense of verticality, but must be in our kinesthetic sense, or ability to feel our own muscular activity and simply give to the weight of the stone. We are not sensitive enough to be able to tell just when we are yielding to gravity, and when we are exerting another force of our own.
伊東博先生訳:石の実習でこれまでに学んできたことは、どんなことでしょうか?とりわけ大事なことは、石が‘温度’や‘かたち’や‘重さ’を持っているということです。そのいずれの性質も私たちの(今ある)状態に従ってその知覚のしかたが違ってくるということです。石の存在のいずれの局面に対しても、それに対応する感覚の様式(モード)をもっており、また効果的に感じとる場所に私たちを導いていくのに必要な関節や筋肉を私たちがもっているということです。これまで主として重さについての実習をやってきたのですが、私たちの石に対する態度が変われば、それに伴って重さの感覚もまた変わる、ということがわかりました。しかし、石が私たちを導いていく方向については、同じようなことがいえません。私たちが石に導かれて辿ったコースが、それを見ている人にとっては不規則とか斜めに見えても、私たちにとっては、それはいつでもまっすく下なのです。というのは、石を落とすと、それがひとつの方向だけに落ちるということは、私たち自身を含めてだれにもはっきりしていることなのです。私たちの損傷は、明らかに視覚的なものでも、垂直の感覚におけるものでなく、それは運動感覚的(kinesthetic)なものにちがいないのです。―つまり、自分の筋肉の活動を感じる能力、および単純に石を重さにまかせる能力における損傷ということなのです。自分が重力にまかせているのか、それとは別に自分自身の力を使っているのか、それが見分けられるほど、私たちは敏感ではないのです。)
今日の午前1時になると、世界中から28名の参加者がZOOM画面に現れました。ZOOMホストのサンフランシスコのビエタさんが、簡単にメキシコシティーの世話人メルセデスさんを紹介して、センサリー・アウェアネスの実習が始まりました。
メスセデスさんの静かな声でシャーロットの「石の実習(DOWN AND UP)」の簡単な紹介のあと、「静かに目を閉じてみることができますか?目を閉じてみませんか?」「いま、自分の目を閉じてみると、からだの感じは、いかがでしょうか?」「じずかな時間が自分のなかに訪れてきましたら、ゆっくりと静かに、自分の片方の手を自分の頭のほうへ持ち上げてみることができますか?自分の頭の上のほうへ、ゆっくりと、静かに、自分の片方の手(腕)を持ち上げてみませんか?」
「自分の手を自分のあたまに近づけることができましたら、そっと、静かに、自分の片方の手で自分のあたまに触れてみませんか?」「いま、自分のからだの感じは、いかがでしょうか?」
「自分のあたまに触れている手(腕)が疲れてきたら、また、ゆっくりとしずかに、自分の手を頭から、ゆっくりと離して、下へ降ろしてください。」「いま、自分のあたまの感じは、いかがでしょうか?」「自分の手であたまに触れていた感じは、まだ、残っていますか?」
「それでは、今度は手を換えて、もう片方の手で、また、自分のあたまに触れてみたいと思います。」
「自分のもう片方の手で、自分のあたまに触れる準備ができましたら、ゆっくりと、しずかに、もう片方の手を持ち上げて、自分のあたまに近づけて、自分のあたまに触れてみませんか?」
「自分の触れる手を換えて、自分のあたまに触れた感じは、いかがでしょうか?」「利き手と利き手でない手で、自分のあたまに触れた感じは、いかがでしょうか?」「充分にあたまに触れることができましたら、また、ゆっくりと、しずかに、手を自分の頭から離して、下に降ろしてください。」
「自分の両手が、ゆっくりと休むことができましたら、今度は、両手で、自分のあたまの前側のおでこと後側の後頭部から、触れてみたいと思います。準備ができましたら、ゆっくりと、しずかに、自分の両手で、自分のあたまの前側と後側から、しずかに、そっと、触れてみませんか?」「両手で自分のあたまに触れている感じは、いかがでしょうか?」「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」
「自分の手が疲れてきたら、しずかに、ゆっくりと、頭から手を離して、下に降ろしてください。」
「いま、自分のあたまの感じは、いかがでしょうか?触れていた両手の感じはいかがでしょうか?」
「それでは、今度は、いま触れられていた自分のあたまを、重力にまかせて、前の方へ、ゆっくりと降ろしてみることができますか?重力にまかせて自分のあたまをしずかに、ゆっくりと、前側へ降りるとこまで、降ろしてみませんか?」「自分のあたまが前側へ降りるところまで降りたら、そこで、少し休んでみませんか?」「あたま、頸すじ、肩の感じは、いかがでしょうか?」「いま、呼吸は、いかがでしょうか?」「それでは、また、ゆっくりとしずかに、少しづつ、自分のあたまを持ち上げて、もとのところまで戻してみると(let’s come up, every moment is a moment)、あたま、頸すじ、肩の感じは、いかがでしょうか?(How you are connected to the Earth, chair, floor, etc.?)」
「自分のあたまが、もとのところに戻りましたら、しずかに、ゆっくりと目を開けることができますか?目を開けてみませんか?( Open to your eyes, everything you see.)」
「こんどは、自分の両手の指先で、自分の両肩に触れてみたいと思います。準備が出来ましたら、ゆっくりとしずかに、自分の指先で、自分の肩に触れてみると、自分のからの感じは、いかがでしょうか?」
「次に、両手の指先で自分の両肩に触れながら、自分の両肩をしずかに、ゆっくりと、持ち上げることができますか?持ち上げてみませんか?」「自分の両肩を上に、上がるところまで、持ち上げたら、また、ゆっくりと静かに、下に降ろしてみることができますか?」「両手が疲れてきたら、両手を肩から離して、ゆっくりとしずかに、下へ降ろしてください。」「いま、からだの感じは、いかがでしょうか?」
「自分の両手が、ゆっくりと休むことができたら、事前に準備していた片方の石を片方の手で触れてみませんか?」「いま、触れている石の形は、いかがでしょうか?いま、自分の手で触れている石の感触(温度、重さ、色)は、いかがでしょうか?」
「それでは、いま触れている石を、ゆっくりとしずかに、上に持ち上げてみることができますか?持ち上げてみませんか?」「いま、自分の触れている石を上に持ち上げるとき、自分の腕に、どのくらいの力が入っていますか?」「いま、自分の腕にどのくらいの力を入れているでしょうか?」「いま、持っている石を上に持ち上げることができましたら、また、ゆっくりとしずかに、石の重さに合わせて、下へ降ろしてみることができますか?石があった、もとのところへ戻してみませんか?」
「それでは、今度は、もう片方の手で、もう1つの準備した石に触れてみることができますか?触れてみませんか?」「いま、自分のもう片方の手で、触れているもう片方の石の感触は、いかがでしょうか?」「石を持ち上げる準備が出来ましたら、ゆっくりとしずかに、いま触れている石を、持ち上がるとことまで持ち上げてみませんか?」「いま持ち上げている石の感じは、いかがでしょうか?」「手を換えて、利き腕と、利き手でない腕の時では、石の重さの感じは、いかがでしょうか?」
「いま触れている石の重さを感じることが出来ましたら、次に、坐っている人は、そこで立つことができますか?(invite and come up to standing. How is now standing ?)立ってみませんか?」
「いま、立つことが出来ましたら、(坐ったままでも大丈夫です)自分のあたまを重力にまかせて、下に、降りるところまで、降ろしてみませんか?」「自分のあたまが、重力にまかせて、ゆっくりとしずかに、降りるところまで、下りましたら、今度は、ゆっくりとしずかに、自分のあたまを上に持ち上げてみることができますか?持ち上げてみませんか?」「いま、自分のあたまが、元のところまで、戻りましたら、もう一度、自分のあたまを重力にまかせて、下に降ろしてみませんか?」「自分の頭が、下へ降りるところまで、下りましたら、また、ゆっくりとしずかに、自分のあたまを上に持ち上げてみることができますか?」「いま、ちゃんと立っていますか?(Are you enjoy standing ? find any moment is present.)」
「それでは、最初にいたところに、戻ってきて、これまでの自分の体験を参加者の皆さんで、シェアーしませんか?いかがでしょうか?」
以上、簡単ですが、今日の夜中のメキシコシティーの世話人メルセデスさんのセンサリー・アウェアネスの「石の実習」の報告です。私の準備した2つの石(stone, not rock)が、少し大きく、手のひらサイズであったので、少し腕が疲れてしまいました。
8月21日 伊藤稔
SAW 2022年8月14日
今日8月14日お盆休みの夜中のセンサリー・アウェアネスの実習は、ニューヨーク市のクイーン在住のペニーさん(Penny Smith)でした。彼女は、2020年12月6日が毎週末土曜日のSAWの世話人として初登場して以後は、2021年5月30日、9月19日、11月14日、2022年4月17日、今日が6回目の世話人になります。彼女は、看護師として仕事を続けながら、1968年からシャーロットと夫のブルッツクスらのセンサリー・アウェアネスの実習に参加してきました。伊東博先生のニュー・カウンセリング・ワークショップの初期のころに、看護教育にニュー・カウンセリングの哲学を導入した見藤隆子先生(1932-2012; https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2011/PA02930_02)と重なります。ペニーさんは、長年看護師として自分自身のキャリアにセンサリー・アウェアネスの哲学を据えて、以後、センサリー・アウェアネスのワークショップをニューヨークやモヒーガン島で実践してきました。
ペニーさんは、最初にシャーロットの言葉を紹介しました。「we are not seeking a correct standing, sitting, breathing, et cetra, according to any pre-established criterion, but are simply studying the nature of the phenomenon itself as it occurs in each of us individually. What it it that is really happening when we say we are “standing” or “breathing”? Since we do not seek a verbal or in any way definitive answer, this is a study without certifiable achievement and without end. Its only interest is the essential interest in living processes themselves. In it the humblest student, though he or she may lack clarity and depth, has as much authority as the most experienced teachers.(伊東博訳『センサリー・アウェアネス』31頁より、私どもは、決して、すでに確立されている規準に従って、正しい立ち方、正しい坐り方、正しい呼吸のしかた、などといったものを求めているわけではありません。私どもはただ、私どものひとりひとりの中に起こっているままの現象の性質を理解しようとしているだけなのです。私たちが「立っている」とか「呼吸をしている」というとき、実際にそこに起こっているのはどういうことなのでしょうか?私どもは、言葉で答えるとか、どんな形ででも定義づけをするような答え方を求めるというようなことはしませんから、形にあらわせるような証明だとか、目標とかいったものをもっていない勉強なのです。生きるという過程(living processes)プローセスそれ自体に対する基本的な関心をもっているだけなのです。ですから、私どもの勉強の中では、明晰さも深さも十分にもっていないような、いわゆる大へんカッコわるい参加者でも、最高の体験をもっている教師と全く同等の権威をもっているのです。)」
世話人のペニーさんが、最初に参加者に呼びかけたことは、「いま、自分の足に履いている靴下や靴を脱ぐことができますか?脱いでみませんか?」「自分が、いままで履いていた靴下や靴を脱いでみると自分の足の感じはいかがでしょうか?」「自分の素足を自分の手のひらで触れてみることができますか?触れてみませんか?」
「はじめに片方の足の裏を両手のひらで触れてみると、どんな感じでしょうか?自分の手のひらの体温を足の裏で感じることができますか?」「足の裏で、自分の手のひらの感じを受け取るとこができたら、自分の両手のひらの指先で、自分の足の裏から、足の指先を1本、1本づつ、自分の手の指先で、丁寧に、ゆっくりと、自分の足の指先の1本、1本の関節のひとつ、1つを動かしてみることができますか?」「自分の足の指先を1本1本づつ、丁寧に、静かに、手の指先で、動かすことが出来ましたら、今度は、自分の手の指と足の指を組んで、ゆっくりと、しずかに、自分の足くび(くるぶし)を回してみることができますか?ゆっくりと静かに足首を回してみませんか?」「自分の手の指で、自分の足のくるぶしをゆっくりと静かに、一方向に何回かまわすことができましたら、次は、逆の方向に、また、ゆっくりと、しずかに、回してみませんか?」「何回か、片方の足くびを回すことが出きましたら、足を替えて、もう片方の手のひらで、もう片方の足くびを、しずかに、ゆっくりと回してみませんか?」
「両足の足首を、自分の手のひらで回すことが出来ましたら、自分の足の裏を、手の指先で、静かに、押してみませんか?自分の足のつま先から、足の指先、指の関節、足の指と指の間、足のゆびの付け根、母指球から小指球の間の横足弓、土踏まず、踵(かかと)、足の甲から、足首の関節(くるぶし)の感じ、触れている手の指先から手のひらの感じは、いかがでしょうか?」
「自分の手のひらで、自分の足のつま先から、かかと、足首まで触れることができましたら、今度は、自分の両手のひらで、自分の足のつま先から、足のうら、かかと、足首、足の甲を、ゆっくりと静かに、タッピングしてみませんか?」「片方の足のタッピングができたら、もう片方の足もタッピングしてみませんか?」「自分の左右の足の感じは、いかがでしょうか?」「両足のタッピングが十分にできましたら、今度は、その場所で、立ってみることができますか?立ってみませんか?」「坐ったままの人は、両脚を床に着けてみませんか?」
「いま、自分の足(脚)が、床(地面)に触れている感じは、いかがでしょうか?」
「自分の足の裏で、今いる床(地面)を押していますか?」「自分のからだが、今いる床(地面)から支えられていますか?」「いま、自分の足の裏の土踏まず、かかと、足の指先、足の甲の感じは、いかがでしょうか?」「いま、自分の足のくるぶしの感じは、いかがでしょうか?」「いま、ちゃんと立つことが出来ましたら、今度は、ゆっくりと、歩くことができますか?歩いてみませんか?そのまま、坐ったままでも大丈夫です。」「いま、自分の足を一歩前に出して、歩こうとしたときに、自分の足の裏の感じは、いかがでしょうか?」「自分の足の裏と床の接している感じは、いかがでしょうか?」「歩こうとする時に、足の指先の感じは、いかがでしょうか?」「足の指のつけね、母指球から、土踏まず、かかと、足の甲、足のくるぶしの感じは、いかがでしょうか?」「自分の左右の足の感じは、いかがでしょうか?」「自分のからだが、立つことができたとき、自分の頭、自分のアゴ、頸、頸すじから肩の感じは、いかがでしょうか?」「自分のからだの感じは、いかがでしょうか?」「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」「いま、自分の足のうら、足の指先、指のつけね、土踏まず、かかとは、自分が立つことを支えていますか?」「ちゃんと立つことができたと感じたら、1歩、1歩、自分の歩みをゆっくりと、静かに、進めてみることができますか?歩いてみませんか?」「すこし、時間をかけて、ゆっくりと、いまいるところを静かに歩いてみると、自分のからだの感じは、いかがでしょうか?」
「充分に歩くことができましたら、これまでの体験を、みなさんで、シェアーしませんか?」
以上、簡単ですが、今日の夜中午前1時からの世話人ペニーさんのセンサリー・アウェアネスの実習ご報告です。今日の参加者はアメリカやカナダを中心に、メキシコ、スペインのバルセロナ、ドイツのベルリンから25名でしたが、男性は、モヒーガン島からレイさん、ロスアンゼルス市パサディナ在住のチェスターさんと私の3人だけでした。センサリー・アウェアネスのワークショップは、これまでも、参加者の中心は、女性が占めています。そういえば、伊東博先生のニュー・カウンセリングのワークショップも女性が多かったように記憶しています。平均寿命は、世界中どこでも女性が優位ですね!関東地方は、昨夜来の大雨も過ぎて、また猛暑がもどりつつあります。熱中症や新型コロナ感染者が、なかなか収まりません。私は、ふるさとのお盆さまのお墓参りも3年中断しています。みなさま、ご健康でお過ごしください。来週8月23日(火)が暦の上で「処暑」とのことです。猛暑もコロナもそのころまでに終息してもらいたいものです。お元気でお過ごしください。
8月14日 伊藤稔
SAW 2022年8月7日
今日8月7日立秋の明夜中のセンサリー・アウェアネスの実習は、フロリダのマーシャ(Marsha Glassey)さんでした。センサリー・アウェアネス・ファンデーション(SAF)からのメールでは、シャーロット先生やほかの世話人のビデオ映像(https://sensoryawareness.org/video/の中の2番目がシャーロットの「10モーメント」、英語のテロップが入っています。最後のほうにジュディス先生の教え子の日本人女性も登場しています)を通して、いつでも、どこでも、センサリー・アウェアネスを体験できることを紹介していました。今日の実習の事前準備として、「冷たい水(氷水;Marsha Glassey, who asks everyone to have a glass of ice water nearby.)を準備してください」とアナウンスがありました。
マーシャさんは、今年の4月3日に世話人をつとめて、1974年から2001年までシャーロットや夫のブルックスさんのもとでセンサリー・アウェアネスの実習を行い、シャーロット亡き後は、ヨガ教室、作業療法師、マッサージ療法の中にセンサリー・アウェアネスの哲学を取り入れてワークショップを続いていて、最近では、子どもの権利保障(国連の子どもの権利条約を拠り所に身心の健康維持支援活動)を世界規模で行っています。(Her background experience as an occupational therapist and massage therapist blend beautifully with Sensory Awareness as well as in her offering of classes for Yoga students. Currently she is deeply involved in the compassionate movement to help preserve children’s bodily integrity and medical freedom in the U.S. and the world.)
午前1時になると、静かな声で、シャーロットの言葉を朗読し始めました。
「I belive it can fairly be said of work in sensory awareness that the longer a person has been leading groups, the less easy it is to catalogue what he does, Charlotte, who has been working more than forty years, is constantly improvising and coming on approaches that she has not tried before. For the things we do become less and less techniques as one matures, and serve more and more as improvisations in which each participant in a class simply gains practice in coming to his own experience.(注釈:伊東博訳『センサリー・アウェアネス』第4章「月を指さすpp.27-31」(The finger pointing to the moon)の冒頭のことばを引用していますが、伊東博先生ご自身で、訳注1として以下の通りの長い補足説明をしています。以下、伊東先生の注釈です。「禅佛教に「指月(しげつ)」という言葉があります。これは、佛の教えを「月」にたとえ、その教えを言葉で表現したものを「指」にたとえているのです。つまり、経典は「月を指さす」ためのものですから、経典にとらわれてはならないという意味です。また、佛の教えとか悟りというものは、文字や言葉であらわすことができない、という意味になります。『大佛頂経』の中には「月を指(ゆびさ)せば指を認む」とありますが、師が指を以て月を指示しようとしているのに、弟子は指だけ見ている、という意味でありましょう。また、「指月」という言葉の出典である『禅源諸詮集都序』の中には、「月不在指(月は指に在らず)」とあり、そのすぐあとに「以心伝心(心を以て、心に伝う)、および「不立文字(文字を立てず)」という有名な言葉が出てきます。これらはそれぞれ「いしんでんしん」、「ふりゅうもんじ」として、今日も残っております。いずれも、佛の教え、悟りなどは、言葉や文字では表現できず、心から心へ直接に伝わるよりほかはないのだ、という禅宗の考え方を端的にあらわす言葉なのです。「センサリー・アウェアネス」も禅の立場と同じく、文字や言葉ではあらわしにくく、直接体験によって理解してほしい、という著者(シャーロット)の願いが、この章の題名にこめられているように思われます。」という伊東博先生の訳注が記されています。
世話人のマーシャさんが、シャーロットの言葉を朗読したあと、ゆっくりと今日のZOOMに参加している「参加者の1人ひとりに、直接、声をかけること」から始まりました。ZOOM画面のスピーカー・ビュー(私のPCでは1画面が25名ですが、スタート時点で30名でしたので、2画面でした)のまま。マーシャさんが、スピーカー・ビューに現れている1人ひとりの名前を呼ぶことで、呼ばれた参加者は、「いま居る自分の場所(国や地名)、名前、今いる自然の環境(部屋)の様子を、ゆっくりとしたことばで、お話しすることから、始まりました。(約15分ほどかけて、全員が自己紹介しましたが、これまでの3年間の毎週末のZOOMで、すっかり顔なじみになった人ばかりでした。実際一度も直接お会いしたことが無い世界中の人(主に、アメリカのカリフォルニア、フロリダ、ニューヨーク、マサチューセッツ、メキシコのメキシコ・シティー、ドイツ、スペインのバルセロナ、ベルギー、スコットランド等)ですが、その参加者の声や表情は、毎週末に確認してきましたので、なんだか親戚の人のことを聴いてるような錯覚がありました。)」
「それでは、これからセンサリー・アウェアネスの実習を、みなさんと一緒に始めたいと思いますが、事前に自分で準備した、冷たいコップの水があれば、自分の手元に置いてみてください。いかがでしょうか?」「準備しておいたコップの中の水を観てみませんか?」「自分が準備したコップの水は、いかがでしょうか?」「それでは、これから、静かに、ゆっくりと、自分の準備したコップに、自分の手の指先で触れてみませんか?」「自分の手で水の入ったコップに触れてみると、自分のからだに何か変化は、ありますか?」「それでは、今度は、目を閉じて、冷たい水の入ったコップに触れてみると、どんな感じでしょうか?」「自分の手の指先の感じは、いかがでしょうか?」「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」「それでは、自分の手で、コップをつかんで、自分の口に、少しだけ、冷たい水を口に含んでみませんか?」「自分の唇の感じは、いかがでしょうか?」「自分の口の中の感じは、いかがでしょうか?」「自分のからだに変化はありますか?」「呼吸は、いかがでしょうか?」
「それでは、ゆっくりと静かに、いま手に持っている水の入ったコップを机の上に、戻してみませんか?」「自分の手でコップを持ってる時に、コップの重さに、変化はありますか?」「コップを自分の口から、離して、ゆっくりと静かに、机への上に戻してみる時に、自分の腕の重さを感じていますか?」
「自分の準備した水の入ったコップを机の上に戻すことができたら、今度は、自分の両手のひらを自分の胸に静かに近づけて、みませんか?」「自分の両手のひらを自分の胸に近づけて、そっと静かに触れてみると、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」「自分の両手のひらで、自分の心臓の鼓動を感じていますか?」「自分のからだの感じは、いかがでしょうか?」
「それでは、静かに、ゆっくりと、自分の両手の指先で、自分の上半身をタッピングしてみませんか?」「自分の両手のひらの指先が、届くところまで、くまなく自分の上体をタッピングすると自分のからだの感じは、いかがでしょうか?」「ゆっくりと充分に、自分のからだの上体をタッピングできましたら、両手をしずかに、降ろして、休んでください。」
「自分の両手が、ゆっくりと休むことができましたら、もしも、今いるその場所で、「立つこと」(come to standing)ができる人は、その場に立ってみませんか?そのままの姿勢でも大丈夫です。」
「立った姿勢で、下に降ろしている両手(の腕から肘、手のひら、指先まで)を、しずかに、ゆっくりと、自分のからだの両側から、上へ持ち上げてみることができますか?ゆっくりと、しずかに、自分の両腕を持ち上げてみませんか?」「自分の両手両腕を静かに、ゆっくりと上に持ち上げているときに、自分のからだのまわりのスペースは、いかがでしょうか?」
「自分の両手両腕をゆっくりと、静かに上に上がるとことまで、持ち上げることが出来ましたら、しずかに、ゆっくりと、自分の両手両腕を、あちら、こちらに、動かすことができますか?動かしてみませんか?」「自分の両手両腕をゆっりと静かに動かしているときに、自分の肩の付け根、肘、手首、手のひらの感じは、いかがでしょうか?」「自分の両手両腕が充分に動くことができましたら、また、しずかに、ゆっくりと、自分の両手両腕をしずかに、下へ降ろして、支える必要な無くなるところまで、降ろしてみてください。」「いま居るところ(自然の一部分)は、いかがでしょうか?」「自分の部屋の中、家の外の戸外の(自然の)感じは、いかがでしょうか?」
「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」「みなさんの体験を、シェアーしませんか?いかがでしょうか?」
以上、簡単ですが、今日の夜半1時からのフロリダの世話人マーシャさんのセンサリー・アウェアネスの実習のご報告です。昨日から3年ぶりの甲子園大会が始まり、暦の上では、今日が「立秋」とのこと、暑中見舞いから、残暑見舞いに代わる時節のようですが、まだまだ、日本列島は、各地で集中豪雨や蒸し暑さが、お盆以降も続きそうですね。みなさまが、ご健康であることを願っております。
8月7日 伊藤稔