ーーーー伊東博先生の研究(1)の続きーーーー
第3節 「ニュー・カウンセリング」研究
―人現会の総会時研修会や勉強会で明らかにしてきたこと―
1 人現会総会時の研修会で明らかになったこと
人現会では、これまで年1回の総会時に研修会を開催してきた。以下は、令和2年7月25日にZOOMで行われた研修会の報告の抜粋である。
……私たちが「センサリー・アウェアネス」の核心を学び直そうとする動きは,私たちが取組んでいる「ニュー・カウンセリング研究」を深めるための焦点が定まることにつながりました。
では,その核心とはどういうものか。それは,敢えて言葉にすると,身心一如の“いのち”が静かな状態となり,“いのち”に生じてくる研ぎ澄まされた感覚や意識の過程を内観していくことにより,その感覚が教えているメッセージに気づいていくことです。
今回の研修会では,小池氏が研修会の直前に翻訳されたばかりのテキスト『坐るということの発見』に記載された実習(2001年,ステファン・ラング氏が世話人の実習内容)を、小池氏のインストラクションにより,オンラインで参加した参加者がそれぞれの場所で実際にやってみました。最後に,小池氏より、「立ってみてください。センサリー・アウェアネスの立ち方ではありません(No Sensory Awareness Standing)。Just Standingです。」というステファン氏の問いかけはどのような意味なのかご意見を伺いたい,という問題提起がありました。
私(富塚)は,研ぎ澄まされた感覚で“いのち”の全的充実の状態(循環し執着のない「調和とバランス」が保たれ,おのずから然るハタラキが“いのち”に生じている状態)により気づくようになり,将に身心一如なる“いのち”が,『荘子』に云う「虚にしてものを待つ」(“主体的無”を実感している)状態で「立っている」,ということではないだろうか,と考えました。参加者の藤田さんからは,「フェルデンクライスメソッドの“統合”ということと共通しており,まるごと立つさわやかな感じで,ただ立っている状態ではないでしょうか。」というご意見がありました。
伊東博先生は,この「立つこと」について,次のように述べていられます。
「“立つ”ということは人間存在の基盤にかかわるものである。」
「“立つこと”は,やはり身心一如であると思うばかりである。」
「私たちは,一生かかって“立つ”ことを学びつづけなければならないのかもしれない。」
「今の日本人は,“立つこと”から始めなければならない状況にある,というのが私の仮説の結論である。」 (『身心一如のニュー・カウンセリング』より抜粋)
また,2001年9月1日人間性心理学学会第20回大会で提案された資料「『身心一如のニュー・カウンセリング』―伊東博先生を偲んで―」には,1997年3月の湯河原ワークショップでの実習記録が掲載されていますが,その実習の中で,世話人をされている伊東先生がワークに参加された方に次のように述べていられます。
「伸ばすのではなく,伸びるっていう感じ。下へ伸びていくってことは,要するに、こう上へ上がってくることじゃない? 理屈じゃないんだけど,そういう感じが……。バランスのとれたところにいつでもかえることができる状態をつくっておく。……姿勢が変わるだけで,人格も変わる。だから,身体と心が一緒に変わってくるんですよね。」
伊東先生は,「からだの保ち方が変わるとその気持ちも変わる,すなわち,ここでも“身心一如”という現実を思い知らされる。」(『身心一如のニュー・カウンセリング』)と述べられ,身心相即ということを確信され,「伸びる」という身体意識を感ずることから出発する必要があると提案されたのです。
私は,伊東先生が求められたことを,ウォーキング(歩くこと)を通して私なりに求めています。私のウォーキングは今,足の裏から伸びるという感じがあり,一足一足の歩が「新しく立つ状態になる」ように変わってきました。これは,「センサリー・アウェアネス」の核心から学んできたことであり,伊東先生の教えを一つの道標にした取組でもあり,ウォーキングそれ自体が私なりの教育に直結していることを実感しています。また,立居振舞をはじめとする日常生活そのものが私なりの教育のあり方になっているのです。したがって,「センサリー・アウェアネス」や「ニュー・カウンセリング」を通して学んだことは,私なりの生き方につながっていると言っても過言ではないのです。
今回の研修会で問題にされた「Just Standing」とは,研ぎ澄まされた感覚で自分自身の「“いのち”の過程」を内観し,今ここに存在する身心一如なる(全一なる)“いのち”を敏に感じ取っている状態での「立つこと」に他ならないでしょう。この「Just」ということを敷衍すると,「Just Sitting」や「Just Walking」でもあり,将にその時その場でピッタリのタイミングで相手に応じた最も適切な関与ができるカウンセラー(教育者)であることを志向することではないでしょうか。伊東博先生の言葉をお借りすれば,「センサリー・アウェアネスやニュー・カウンセリングの核心である“Just Standing”は,一生かかって学び続ける課題である」と考えているのです。 (以上、「研修会報告」より抜粋)
伊東先生は,「“アウェアネス”こそ,あらゆる心理療法,あらゆるカウンセリングの核心的なプロ―セスである。」と指摘され,この“アウェアネスの過程”を妨害することは「他者および自己の自主性・主体性を傷つけ,人間としての独立・成長にとって有害なものとなる。」と断言された。だからこそ,「意識的にあるいは無意識的に,他人の行動や態度を変えようとすること,すなわち,他人を操作すること」を止め,“アウェアネスの過程”を妨害しないようにすることが肝要なことであると述べられた(『身心一如のニュー・カウンセリング』)。先生は,「私たちの心のなかには,他人を操作したい(自分の思いどおりにしたい)という悪魔が住んでいる」のであり,「いつも自分の心中を,そしてその言葉・態度・行為をみずからフィードバックしてみなければならない」し,「クライエントが学習し成長するのに,カウンセラーの存在あるいは行為が,それに役立っている,すなわち,援助になっている,援助的である」のかどうかをふり返ることが重要であると述べられたのである(同書)。
伊東先生は、この“いのち”の「おのずから然るハタラキ」,すなわち,それぞれの人間が「“いのち”の自然(人間の自然)」に気づいていく教育方法を模索され,200回以上のワークショップの実践を通して「人間の自然」を回復する道を弘めていかれたのである。
2 人間の動きの基本(人間の基本)である「立居振舞」を調えること
伊東先生は,「からだの動きの基本はそのまま人間の基本である。」とご指摘された(『身心一如のニュー・カウンセリング』)。立居振舞を常に調えながら生活することは,WHOが定義した健康,すなわち,身体的・心理的・社会的にwell beingを志向することであり,健康で元気に生きる秘訣である。この人間の基本的な動きは、「“いのち”の調和とバランス」を調える上での基本である。心はコロコロ変化し続けていくが,肚がすわり丹田での腹式呼吸ができる立居振舞を心がけておくことにより,困難な運命に出合っても大きく動じることなく,健全な“いのち”を保っていかれるのである。「立居振舞を調える」ことは,自動車で云えば,ギアをニュートラルにしておくことであり,『荘子』に云う「虚にしてものを待つ」状態を心がけることであり,『中庸』に云う「未発の中」の状態を保つことであり、「天地人のハタラキ」が見えてくるあり方でもある。それは、人間関係に於ける「調和とバランス」をおのずから弁えた言動となり,人間としてのシマリを自覚した生き方となっていくのではないだろうか。
さらに,伊東先生は,「日本人は日常生活の立居振舞それ自体に、優雅さや美を求めてきたのである。」と述べられた。人間性とか徳というものは見えにくいけれども,その人間の立居振舞や一挙手一投足におのずと現れるものである。自らの身心のあり方,すなわち立居振舞という基本を意識していくことは,自分自身の“いのち”を内観し、“いのち”というものを味わい養っていくことに通じていく。日常生活の中で「からだの動きの基本を調える」ことを心がけていれば,調った“いのち”の感覚が教える、“いのち”のメッセージにおのずと気づくことになる。そして、立居振舞の“優雅さ”や“美”への感覚もおのずと研ぎ澄まされていくのである。日本人の先達は,日常生活に於ける人間のあり方を求め,立居振舞の姿からその人物の内実を観じてきた。武道や茶道などでは,身のこなし(立居振舞)の確かさが、その人物の到達度や成熟度を現していると考えられてきたのである。それは,四季豊かな自然に恵まれた日本人の美意識が求めた観点である。
今日,私たち日本人は機械や物質の豊かな文明生活を享受している。しかし,私たちは,子どもたちの元気のような,生来の健康,すなわち「“いのち”の自然」がおのずからもたらすハタラキを見失っているのではないだろうか。伊東先生は,「私たちにはGrowth Driveがある。」と述べられた。私たち日本人の多くは、『易経』に云う「天行,健なり。君子,自彊して息まず。」といった,生気みなぎる「“いのち”の生成過程」をおろそかにして,文明の利器に依存し便利で快適な生活に慣れ親しんでいるうちに,生来の健全さを忘れてしまったのかもしれない。
伊東先生は、「多くの人が身体の使い方について誤用に陥っている。」と指摘したオーストラリアのマシアス・アレクサンダー(1869~1955)という人の言葉を紹介された。先生は,このアレクサンダーが発見した,「からだの機能に適った身体の使い方」(アタマは上へ伸びる,首はラクに,背中は上下左右に広げ,膝は前へ,といった4つの観点に基づく身体意識)に着目された。私たちは、日常生活に於いて、この「からだの自然な方向により気づく」という観点を意識することにより,身体の故障(肩の凝り,腰や膝の痛みなど)を防止することができる。伊東先生は、引力とアタマの重さという,科学的な根拠に基づく合理的・効率的な教えとして紹介されたのである。
3 人現会の勉強会を通して、「ニュー・カウンセリング」や「センサリー・アウェアネス」の学習を深める
令和2年9月,新型コロナ感染症拡大の状況を踏まえ,ZOOMでの勉強会が行われた。その際,看護学校で「ニュー・カウンセリング」の実習に取組まれている実践の様子が報告された。
・看護師になろうとする人には,看護の仕事をする上で,自分の身心へのAwareness(気づき)は欠かせず,「ニュー・カウンセリング」のような実習をやるしか途はない,との切実な思いで実習の場を与えていくことが必要である。
・最初は「どうしてこんなことをするのか」というような頭での理解があり,自分自身の“いのち”の過程を内観し,“いのち”に生じてきた感覚に気づくことの大切さを知るまでには、その人なりの過程が必要である。
・「ニュー・カウンセリング」の実習では,「からだの動きの基本を調えること」をやってみて,“いのち”の「調和とバランス」や「“いのち”の自然」というものに気づいていくことが肝要である。
・大切なことは,自分自身の“いのち”の感覚に気づくこと。「よろしければ共に学んでいきませんか。」「共に探究していきませんか。」と提案する基本的なスタンスをもつこと。そして、それぞれの参加者にはどのような感覚が訪れてきたのか,その一言を聴いてそれを察していくことが世話人に求められることである。
・ニュー・カウンセリングの核心は,「人間を身心一如としてとらえる」こと。すなわち,身・心の相即一如的存在であることを踏まえて,「からだ」「呼吸」への身体意識に目を向けていくことにある。
この勉強会の前に,小池治道先生より、シャーロット・セルヴァーの談話「呼吸について」(抜粋)の翻訳が提案された。この資料には,次のようなことが述べられていた。
「呼吸のハタラキ(プロセス)も,植物が周りのものすべてに関わっているのと同じように,自分の内部や周囲に起こっている全ての事柄とつながっています。私たちの呼吸には,私たち有機体の中で起きている全てのものが現れてくるということです。貴方の呼吸は,貴方の今の状態をハッキリと指し示しているのです。私たちの内部に起きる全てのことがとても大切です。呼吸を探求するのは,その時々に,貴方に起きている状態や行動の内部に起きていることの発見です。呼吸を発見し続けていれば,貴方はより静かになり,より自由に,より健康に,より生き生きとなるでしょう。呼吸が自然に始まるという事実。自発的な呼吸の発見。全てのことは,感覚的な問題です。貴方が物事を自分自身で発見し,貴方の感覚を信じ,感覚から学び,全てのことを他人から聞かなければならないとはしないということです。それこそが本当の探求です。そして貴方は生命体の話す,とてもハッキリとした言葉を聞いて,大喜びすることでしょう。」
人現会の勉強会は私たちの「ニュー・カウンセリング研究」の場であり,学んだことを自分なりに習う機会である。たとえば,勉強会のなかで「世界を感覚で捉えたら,同じものは一つもない。」(『遺言。』)と述べられた養老孟司(東京大学名誉教授,解剖学)さんの見識が紹介された。これは以前,伊藤稔会長が,山極壽一氏(京都大学総長,日本学術会議会長,ゴリラ研究の第一人者)の次の意見を紹介してくださったことに関連づけての発言であった。
「私たちにとって重要なのは,違う時間を生きている他者と共存し,さまざまな立場から見える異なる世界を理解しようとしていくことではないかと思うのです。」(令和2年9月1日,朝日新聞)
この日の勉強会では,友田不二男先生の講演記録「現代の不安と未来社会 ―エコロジーとエントロピーとカウンセリング―」(喜寿祝記念誌『かりのやど』)より、次のような内容が紹介された。
「たぶん多くの人は,何か日々の生活の中で,この生身の五体が何かこういうエントロピーに類する何かを感じているのだろうと,私は想像しておるんです。……どうもこの“エントロピー”を基準とした,こういう観点から見ていきますと,今日私どもがやっておることは,端的に申し上げれば確かに,“地球の破滅を目指して,ひたすら驀進しておる”と言ってしまってもいいような気がします。……
“もっと純粋な感受性”というものを私ども自身がもう一度ふり返ってみる必要がありはしないか? 何かこの“自然”と、“人為的に作り出している自然”とが,どこかで混同されているんじゃないでしょうか? “五体がピンと感ずる”そこでパッと“それを実行する”行動がある。……一言で申し上げて、とにかく,“純粋に”“英知を働かせる”,そうして“利用する”とか“剥奪する”とか,こういう言葉につながらないで“ともに生きる”という“共生”を,なんとか具現する方向に、英知を傾ける時に来ているんじゃないだろうか?……」
このような見識は,この五躰,「全一なる“いのち”」で「自然(天地人のハタラキ)」を感じ取り,自分に備わっている感受性をはたらかせ,自分の“いのち”の感覚が教えていることに気づき、その気づき(アウェアネス、叡知)を自分に与えられた持ち場で具現化していく生き方を提案しているのである。
4 「空間的存在としての人間」について理解すること
伊東先生は,「空間を動く(移動する)ということも人間の基本の一つである。」と述べられた。また,この「空間的存在としての人間」を無視することは哲学の怠慢であるとまで指摘された。そして,伊東先生は次のように述べられた。
「空間を動く(移動する)ということは,人間に何らかの意志・意欲があるということであり,からだとこころが一緒に動いているのである。人間は空間を移動する(ムーブメント)によって身の回りにいる人間にふれるばかりでなく,自然や環境へとみずから選び出し,文化と接触するということは,“いま”を超えて“あの時”へと時間を移動し,“ここ”から“あそこ”へ空間を移動することである。人間関係を越えて,環境,文化,芸術,社会など,いわゆる“まわりの世界”に対するアウェアネスは,人間として生きることの不可欠の条件である。」
5 「“いのち”のリズムとバランス」を把握すること
伊東先生は,「人間の動きにはリズムが必要である。健康にはリズムが欠かせない。」と述べられた。また、先生は,「クライエント(児童・生徒)をよく理解し,共感し,クライエント(児童・生徒)に信頼されるカウンセラー(教師)というのは,教養から発する“ゆとり”のようなものを身に付けているのではないか。カウンセラー(教師)の醸し出す雰囲気は,教養と関係があるのではないか,という大胆な仮説を抱き始めている。」と述べられた。「自分のアプローチは方法・技術ではないから毎日変わるのだ。いつでも現実世界が提示してくる新しいことに常に対応しなければならない。」と、シャーロット・セルヴァーが述べていることを、伊東先生は引用された。
次に,伊東先生は,「日本人は立居振舞の中に優雅さや美を求めてきた。その優雅さや美が生み出されるのは,リズムで動いているからだと直観することができる。」と述べられた。
そして,伊東先生は,「ニュー・カウンセリングの基本的な実習で求めていることは,まさに一般の日本人に,このリズムとバランスを取り戻したいという,まことに大それた,不遜な希望に発している。それは単にからだのリズムやバランスのことではなく,生き方全体の問題なのである。」と述べられた。「ニュー・カウンセリング」というものを追求し弘めてこられた伊東先生は、科学万能主義や経済中心社会に驀進してきた日本社会,それらを追い求める過程で見失ってしまった「日本人(人間)のリズムとバランス」を取り戻す具体の場を提案され実践してこられたのである。
人間に於ける「“いのち”の自然」を追求された伊東先生は,「リズムとバランス」について,次のように述べられた。
「リズムもバランスも身心一如のところに在る。だから,リズムが欠ければバランスはなくなり,バランスが欠けるとリズムが損なわれる。リズムの感覚,バランスの感覚は一つのもののように思われる。」
「人間のリズムは,心臓の鼓動や呼吸のように,本源的な身心のリズムに発するものである。リズムは空間を移動しない人間にも本来的にあるが,人間が“動く”ときには,はっきりとリズムが出てくる。」
「バランスもまた,“動き”にとって欠かせないものである。私たちは生涯,バランスの学習をし,それをチェックしなければならないようである。」
「このリズムの感覚,バランスの感覚が日本人には非常に欠けているように思われる。」
私たち人間は,自身の“いのち”を養う上で,自分の感覚を拠り所にして,「調和とバランス」や「リズムや循環」を調えていくことが必要である。たとえば,この“いのち”の「生きよう,伸びよう」とするハタラキと地球の引力とのバランスに意識を向けること。全一なる(身心一如である)“いのち”の自然な呼吸や,立居振舞の優雅さに生じるリズムを大切にすること。そのリズムを生み出す“足の裏”や足首,膝や腰のハタラキ,背中の広がりを意識したり、「アレクサンダー・テクニーク」が教えるアタマ全体の首の置き所などを意識したりして、「身心の動きを調える」ということ。私たち人間は、日常生活の中でこうした身心のあり方に意識を向けて変化し続けていくことが欠かせない。伊東先生は,このような生きる上での基本的な身心のあり方を追求されたのである。
6 生きる基本としてのウォーキング(歩くこと)
伊東先生は,「人間は動くものであるということ(動くからだ)を無視してはならない。」と指摘された。そして、人間の動きの基本である「歩くこと」について,次のように述べられた。
「歩くということは,私たちが一生をかけて学んでいることなのかもしれない。」
「身心の機能は毎日少しだけの整備で機能が維持されるばかりでなく,歳をとっても機能が向上するものなのである。」
「私は、“バランスのとれた歩き”を最も大事なことと考えている。」
また、伊東先生は,「歩くということは,人間の身体的・精神的・社会的なすべての機能の活性化につながるのであり,人間の動くこと・生きることの基盤である。」と述べられた。
7 「呼吸への気づき」を深めること
伊東先生は、ご自身のからだの経験を基盤にして「ニュー・カウンセリング」という教育方法を求めていかれた。
「若いとき私の肺活量は、4800ほどあった。38歳のとき、肺外科の手術をして、左肺の半分を潰した。57歳のとき、医師に、肺気腫だから、これ以上肺の機能を低下させてはならない、と言われた。だんだん歳をとってくると、機能は低下してくるのが普通だから、せめて現状維持ができれば上等だ、というわけである。そのころ私は、ヨーガを習いはじめており、50代でも、毎日動かしていれば、からだがだんだんやわらかくなることに気がついていた。関節や筋肉が、使っているともっと動くようになるのであろう。人間のからだは、使っていると、老化をかなり遅らせることができるばかりか、むしろ若返ることができることを経験していたのである。そして、それは身体だけのことではなく、精神的な機能についても同じであろうと確信した。ここで、老化と言ったり、若返ると言ったりしていることも、身心一如にそうなるのである。……肺気腫というのは、肺臓を構成している、一人平均3億個といわれる肺胞が、少しずつ死滅して、呼吸体積を小さくしていく病気である。その肺胞を毎日使っていれば、その死滅をかなり防ぐばかりか、あるいは死にかかっている肺胞が活性化されて、ときには生き返るのではないか、という仮説を立てたのである。そして、いわば、自分の身を実験にかけてみた。
そのころに、アレクサンダー・テクニークや、ボリセンコの腹式呼吸に接する機会があった。……(伊東先生の65歳~78歳に至る13年間の「肺活量の変化のグラフ」は省略)……私の、使っていれば老化しない、という仮説は見事に立証されたと思っている。」
(『身心一如のニュー・カウンセリング』p145~147)
私たちが、「人間の動きの基本を調える」時,自分自身の呼吸への気づきは重要な要素である。シャーロット・セルヴァーは,呼吸について次のように述べている。
「呼吸の過程は、植物が周りのもの全てにかかわっているのと同じように、自分の内部や周囲に起こっている全ての事柄とかかわっている。呼吸はいつでも、その人があるようにあるのです。…貴方の呼吸は、貴方の今の状態をハッキリと指し示しているのです。
呼吸は、その時々に、貴方に起きている状態や行動の内部に起きていることの発見です。この呼吸を発見し続けていれば、貴方はより静かになり、より自由に、より健康に、より生き生きとなるでしょう。
これらの全てのことは感覚的な問題です。貴方が物事を自分自身で発見し、貴方の感覚を信じ、感覚から学び、全てのことを他人から聞かなければならないとはしないということです。それこそが本当の探求です。そして貴方は生命体の話す、とてもハッキリとした言葉を聞いて大喜びすることでしょう。」
(『ON BREATHING』(Excerpts from talks by Charlotte Selver)
このような“自然な呼吸”を求めることは、私にとって大切な課題である。それは、自分自身の“いのち”の状態を覚知しながら、「“いのち”の自然(人間の自然)」を求めることであり、「“いのち”の声(“いのち”からのメッセージ)」に耳を傾けていく生き方なのである。
伊東先生は、「身心は同時に機能していること(身心一如である)」、また「バランスのとれた身心の状態を回復することの大切さ」を繰り返し述べられ、その具体的な方法を「ニュー・カウンセリング」の実習として提案された。伊東先生は、次のように述べられた。
「私たちは、朝起きてから、顔を洗ったり、ご飯を食べたり、本を読んだり、坐ったり立ったり、歩いたりするときにも、うっかりすると(いやほとんどの場合)からだを無理に、あるいは非常にアンバランスに使っている。学校でさえも、子どもたちが机の上に突っ伏して字を書いたりしても(目が近すぎたり、女の子など髪の毛が机の上まで垂れているのを見ることがある)、先生は何も言わない。いわゆる“姿勢が悪い”ということなのだが、そうした習慣が私たちの身心のありのままの働き(ほんらい備わった機能)を非常に傷つけているのである。……“姿勢”一つとってみても、その姿勢のために、身心の機能が低下したり、向上したりすることがわかるであろう。……姿勢や呼吸は、“精神と身体の同時機能”(身心一如)ということがわかりやすい活動である。……歩くときだけではない。私たちのどんな小さな動きでも、かならず全身心がそこにかかわっているのである。人間はいつでも、全身心で動いている。……身心のアンバランスな使い方の習慣に気づいて、できるだけ早く不自然な動き方に気づき、自然な機能をできるだけ早く回復することができるように配慮している。可能性の現実化、自己実現はここから始まると思う。」 (『身心一如のニュー・カウンセリング』p128~132)
このような見識を抱かれた伊東先生は、毎朝、「朝の目覚め」という実習を提案され、毎朝ご自身も取組まれていた。
「まず、身心をよく目覚めさせてから、その日の活動を始める方がよい。……また長期的にみれば、使わずにおくとサビついてしまう筋肉、関節、神経、そして脳などをよく動かしておけば、老化を予防することもできる。……朝のうちに、ふだん使わないからだの部分も、充分に、まんべんなく(バランスよく)使って(調整して)おいた方がよいのである。」(同書p150)
「私自身も、歳をとるにつれて、からだは固くなっていくものとばかり思っていた。多くの人もおそらくそのように思い込んでいると思う。現実には、歳をとっても、からだは、毎日動かしていれば、やわらかくなるということがわかった。それに気づいた私は、いや、これは精神面についても、つまり知的な活動においても、同じことがあるのではないか、と思うようになった。」(同書p152)
伊東先生が、「センサリー・アウェアネスはニュー・カウンセリングの原点である。」と述べられたのは、身心一如(全一)なる「“いのち”の自然(おのずから然るハタラキ・感覚)」を内観する場を志向している。勉強会では、伊藤稔会長から、伊東先生が翻訳された著書の内容が紹介された。
「まっすぐに立っていると、もっとたくさんのものが見えます。まっすぐに立っていると、すべてのところにいるのと同じなのです。まっすぐに立っていると、何が起こってもすぐにそれに向かっていくことができます。」 (チャールズ・ブルックス著、伊東博訳『センサリー・アウェアネス』p54)
「センサリー・アウェアネス」は「conscious standing(意識的に立つこと)」、あるいは「come to standing(立つという状態になること)」「juststanding」を学び続けていく意義を教えている。勉強会では、同著のなかで、次のようなことが指摘されていることが紹介された。
「“すべてのものの中に佛がいる”という言葉も、すべての有機体はその本姓に従って完全な意識(full conscious)をもつことができるのだと解すべきであって、ひとつひとつのものに神性が宿っているのだと解すべきではないでしょう。そうなれば、意識、感覚の器官も力を取り戻し、その結果としての人間の尊厳性も増すことになるでしょう。そうなればまた私たちは、ありのままを知覚しながら―浅いことも深いこともあるでしょうが―安定した生き方をすることができるし、しかも、とりとめもない思考からも解放されることでしょう。」(同著p18)
この著者チャールズ・ブルックスは、「理解だとか、賢明な行動といったものの基盤には、明確な知覚がなければならないのです。」と述べている。そして、「センサリー・アウェアネス」は、私たちに、「allowing more consciousness(もっと意識することを許すこと)」「sensory awareness(感覚の覚醒)・inner awakeness(内面の目覚め)によるbeginning of wisdom(智恵の開眼)」「taste of fullpresence(完全に実存しているという感じをもつこと)」「total functioning(全体として機能している感じ)」「meditation in everyday living(日常生活に於ける瞑想)」「fuller presence and connection(もっと十分に現存在し、もっと十分なかかわりをもつ)」「every moment is a moment」といったことを学び続けていくことを教えているのである。
8 気づき(アウェアネス)は自分が真に存在している場に訪れること
令和2年11月中旬、新型コロナウイルス感染症はまた急速に拡大し、11月の勉強会は10月と同様にZOOMミーティングで行われた。まず、2020年にセンサリー・アウェアネス財団が制作した「Beingmore present(もっと存在すること)」という、シャーロット・セルヴァーが100歳の時のメッセージを視聴した。小池治道氏が事前に翻訳された資料を見ながら、シャーロットの生の言葉を聴いた。
「聞いているようで聞いていない。あたかもやっているようなつもりになるのをお止めなさい(Getting out of the ‘doing as if’)。本当にその場に存在するということは、実に、実に驚くべきことです(Really being present is a very, very amazing thing.)。自分がしていることにその場にいるということは、“感じる”というとても厳しい主人公なのです。自分が感じていることにどれくらい耳を傾けられるのか、それは自分ですることです。
すべての瞬間は生きている瞬間であり、学びの瞬間であり、新たな可能性の瞬間であり、自分が“感じること”をするための瞬間です。その場にいるということがどんなに困難なことであろうとも、自分自身の意識はいつも自分と共にいます。自分自身が変わるのに必要な変化と要求をすべて受け入れること。これは本当に献身を意味します。物や人と本当にふれることに伴ってどのようなことが起こるのかを学ぶために、どのような忍耐が必要か、どんな困難なことでもいとわないということが自分に課せられたことなのです。」
第4節 伊東博先生に学び続ける
伊東先生は、死を迎えられる1年前の80歳のとき、私ども後進に対して、「西洋文明から東洋文明へ」「西洋文明への疑惑」「東洋への回帰」という問題提起をされた。しかし、伊東先生は、夏目漱石やシャーロット・セルヴァー、あるいは『老子』の言葉を引用されてご自身の見識を述べられたものの、「西洋文明への疑惑」についての詳細な見解を私ども後進に対して述べられることなく、また「東洋への回帰」についても一歩踏み込んだ考察を述べられることなく他界された。私たちは、伊東先生が「あまりにも大問題なので、誰もにわかには賛成してくれないと思う。」と語られた、その真意について改めて考えてみる必要があるだろう。「自然にかえろう・東洋にかえろう」と述べられた、その切なる声は、このまま西洋文明の延長上を邁進していくことは、地球のみならず人類にとって取り返しのつかない結果を招いてしまうという危機感ではなかったのだろうか。
西洋文明への疑惑
西洋文明は、人類に対してさまざまな科学や技術の発達、その副産物として実に多くの機械や物質、利便性や快適さをもたらした。物質的には豊かな生活になったのである。科学は細分化・専門化され、それぞれの専門家から実にさまざまな科学の知見が指摘され、私たちは日常の実感よりもそれらの情報に依存しながら生活をするようになった。それは単に外部の情報に頼る生活になっただけではなく、さまざまな情報に振り回されながら生きざるを得なくなったのである。その結果、私たちは「“いのち”の絶対的な感覚」をおろそかにして、自分の“いのち”に於ける「おのずから然るハタラキ」に気づくことが難しくなってきた。すなわち、私たち自身の「“いのち”の自然」を見失う事態を招いてしまったのである。人間の“いのち”が一つの自然ならば、このことは極めて重大な問題である。「“いのち”の自然」に気づけなくなった人間、それを見失ってしまった人間は、自然を破壊しても心を痛めることなく、自然と自分との間に境界を作って自然を次々に造り替えてきた。そうした行為は、自然環境と自分の“いのち”が一如であるといった「“いのち”のつながり」に対する感覚を麻痺させてしまった。このことは人間存在にとって根源的な問題であり、自分と他者との関係に於いても境界をつくり、お互いの“つながりの感覚”が見失われ、その結果、私たち人間の“いのち”そのものが粗末に扱われるようになってしまった。それ故に、人間として異常な事件が次から次に発生しているのであり、問題解決の根本は私たち人間が「“いのち”の自然」に立ち戻ることなのである。
たとえば、食べること一つをとっても、「この食品にはこういう栄養素が含まれているので身体によい。」「もっとさまざまな栄養をとった方が健康にはよい。」等の情報に振り回されながら情報に頼る食生活を積み重ねるうちに、私たちはいつの間にか過剰摂取となり肥満傾向になっただけではなく、さまざまな病気のリスクを背負うことにもなった。その結果、医療費の増大は今日の大きな社会問題となっている。また、便利で快適な生活を追い求めるあまり、食品添加物が多く入った食品を次から次に食べたり多量の食べ残しを捨てたりしても何とも思わない生活をするようになってしまった。このような背景から学校教育では「健康教育」が重視されてきたのであるが、学校での教育は、基本的に「知識を教える教育」であり、それぞれが自分の“いのち”を如何に養っていくのか、といった、それぞれの感覚を通した「“いのち”の養生」という観点とは似て非なるものになってしまった。(最晩年には、伊東先生は「学校は西洋を教えるところだった。」と述べられていた。)また、便利で快適な生活をしているうちに、身体を働かせることをおろそかにし、返って身体の健全さやしなやかさを失ってしまったのである。
伊東先生は、「今の日本人のほとんどの世代が、西洋思想のパラダイムの中に強く、深く閉じ込められているように思われる。」と指摘されたが、私たち日本人のほとんどが機械・物質を中心にした文明を追い求め続ける人為・人工的な社会に何ら疑問を抱くことなく、むしろその延長線上を違和感なく突き進んでいくことが最善であると思い込んでしまっているのではないだろうか。私たち日本人の生活は、明治以降150年の間に、西洋文明によってすっかり変わってしまったし、今もその延長上でその発展を求め続けているのである。
では、私たち日本人は今後、どのようなあり方を求めていけばよいのだろうか。
物事の判断は多くの場合、相対的な見方になってしまうことが多い。それは仕方のないことではあるが、自分自身の「“いのち”の感覚」を拠り所にして思索しながら自分なりの気づきを基にした取組みをしていくことが必要不可欠ではないだろうか。自分の調った“いのち”に生じてくる感覚は、自分に於ける「絶対」であり、それ故に、情報に振り回されることのない無礙なものであり、“いのち”と共に絶えず変化しながら生成していくものである。「センサリー・アウェアネス」が教える「感覚を通して学ぶ」ことが必要なのではないだろうか。
伊東先生が指摘されたように、「私たち日本人はすっかり心身二元論を根本とする西洋哲学と同じように人間をみるようになってしまい、西洋文明のパラダイムのなかに強く、深く閉じ込められている」状態で、「人間の正当な全体的理解を不可能にしてしまった」のだろうか。「“いのち”の実感」として非人間的でナンセンスなことだと思っても、教育現場でのそうした主張に耳を傾けることが難しいのが、日本の教育の実態ではないだろうか。
たとえば、能力も発達も性質も違う子どもたちを一律の基準で評価していかざるを得ない学校では、知的能力の低い子どもたちは早い段階から劣等感を抱き、よく分からない授業に堪えながら学校生活をずっと続けていかなければならないということである。新型コロナ感染症の拡大で密を避ける必要上、40人学級を段階的に35人学級にすることが国で決まった。長年来、さまざまな立場から要求されてきた、学級の人数を減らす案件であったが、これは今回、感染症対策として政府が容易に決定した。しかし、一人ひとりの子どもたちに寄り添って手厚い支援ができる教員は十分に増員されていない。誠に残念ではあるが、文科省の主張は財務省には容易に通らない、日本の教育行政のお粗末な実態がこの背景にある。
東洋への回帰 ―“自然”にかえる―
さて、伊東先生は、最晩年に「東洋にかえろう」「自然にかえろう」「人間にかえろう」と述べられた。この言葉は私たち後進に対する先生の遺言であった。
では、東洋のあり方にかえるためには、どのようにすればよいのだろうか。
まず、私たち自身が、「“いのち”に於ける自然(おのずから然るハタラキ・おのずから生じてくる感覚)」を覚知することができるように、「からだの動きの基本(人間の基本)」である「行住坐臥(立居振舞)」を調えて、「感覚の覚醒(アウェアネス)」を心がけることである。人現会の勉強会では、毎週、伊藤稔会長ご自身がオンラインで体験された「センサリー・アウェアネス」の実習内容を人現会のオンライン勉強会で具体的に提供されている。私たち学友は、そのインストラクション(声かけ)により、自分の“いのち”を内観して、自分の意識をからだ全体に巡らせ、自分の“いのち”が感じるままに存在する(所謂、瞑想三昧になる)時間を自分に与えている。それは、多忙な日常生活で乱れた「“いのち”に於ける“調和とバランス”」を調えて、身心一如である“いのち”を回復する機会となっている。
私たちは、このような時間を日常生活の中で敢えてつくる心がけをもつことより、「“いのち”の自然にかえる」ことができるのではないだろうか。また、「行住坐臥(立居振舞)を調える」ことが日常生活に於いて実に肝要なことだろう。身近な人たちの立居振舞が乱れ、高齢になられた方たちが腰や膝などの苦痛を訴えられ、ちょっとしたところで躓いて危うい思いをされた高齢者が多い事実に基づけば、幼少期より「行住坐臥(立居振舞)」を調えることを習慣として身につけていく必要があるのではないだろうか。
次に、「ニュー・カウンセリング」の実習の一つ「与えること・受け取ること」は、「“いのち”のつながり」の感覚を覚醒する貴重な体験の場を提供するものであり、この「与えること・受け取ること」の感覚を養うことが重要である。伊東先生が指摘されたように、もっとお互いの「やりとり」の感覚を、人間関係のみならず、集団や社会、環境や文化との「つながり」の感覚をも研ぎ澄ましていく必要がある。理屈や観念ではなく、「かかわること」「かかわっていること」自体の感覚を養うことである。私たちの「“いのち”のつながり」の感覚が鈍化していることこそが問題なのではないだろうか。
「東洋のあり方にかえる」とは、私たち自身が「“いのち”の自然」を回復していくことに他ならない。それは、伊東先生が指摘されたように、「身体的・感覚的な気づき」を大事にしていくということによって可能となり、また「単に個人内部の個人的な成長に限定されるものではなく、生きている人間が、普通にたえず接触している環境・文化・社会に対しても目を配っており、怪しげなものには用心しており、美醜に対して敏感であり、文化と教養に開かれているアウェアネス」(『身心一如のニュー・カウンセリング』)ということを課題にしていくということである。
そして、自然の変化に随い、自然と共に歩み、それぞれの人間が自分の“いのち”の変化を生きる上でのさまざまな知恵を求めていく「東洋のあり方」にかえることである。
伊東先生が求められた養生法に学ぶ
伊東先生(1919-2000)は、『援助する教育』(1971 51歳の時の著書)の「はしがき」の中で、「おそらく“教育”というものは、人間にとって永遠に“挑戦”の対象となるものなのであろう。そして、こうした“挑戦”それ自体のなかにこそ、“教育”の真の意味があるのではなかろうか?」と述べられた。当時の横浜国大教育学部教育学科のゼミ生のみならず、今から50年ほど前に伊東先生と横浜の主婦の方たちが設立された「人間中心の教育を現実化する会」(人現会)の会員の方たちは、伊東先生に対して大変な魅力を感じていたように思われる。外部の方は「伊東博さんはカリスマ的存在」との批判をされる方もいられたが、先生の魅力を振り返ってみると、先生は何か真実なものを求めて常に精力的に学習を続けていられて、その「学習者としての真の姿」は私たち人現会会員にとっては実に魅力ある存在に思えたのである。また、先生の感性や人間的なセンス、教養はもちろん、数々の著書や翻訳を手がけた表現力や、200回以上のワークショップを実施された実践力には、私たちには及びもつかない「持ち前のハタラキ」による素晴らしさがあったのである。
さて、人現会は令和5年に50周年を迎えた。この節目にあたり、伊東先生の後ろ姿を振り返りながら、先生が人現会の設立時に志されたこと(学校教育のなかに人間性、人間らしさ、人間尊重を取り戻すことを現実化していくこと)、その後の「伊東先生なりのカウンセリング」(身心一如、動くからだ、人間の基本、アウェアネスの深まりと広がり、リズムとバランス、感性・美意識・共通感覚、非操作主義等)を探求された過程、そして、私たち後進に述べられた遺言「西洋文明から東洋文明へ、自然にかえろう・人間にかえろう・東洋にかえろう」を貫いているものは何であったのか、考えてみる必要があるのではないだろうか。
それは、「知の論理(ロゴス)」で科学を発達させ、さまざまな機械や物質を作り出してきた西洋文明、その西洋文明の恩恵を享受しながら人為・人工的な社会を邁進し続けている私たち日本人に対して、私たち日本人の先達が大切に培ってきた「精神的生命」をそれぞれが自分の内に覚知し、自分もまたその恩恵に照らされて育ってきた一人であることを自覚し、その大切なところをおろそかにしないで生きていくことではないだろうか。
易学の考え方をすれば、「陽のハタラキ」ばかりが強調され、そのハタラキと相俟つ「陰のハタラキ」を見ないようにして進んできた西洋文明社会は、人間や物事を全一に観ることをおろそかにし、「我の拡張」の方向で突き進み、「人工知能(AI)の開発」「遺伝子工学の進化」「経済の成長・発展」「教育のデジタル化」「地球環境問題」「自国の覇権拡大」等、止まることが困難な状態になってしまった。伊東先生は、このような現実に対して、「私たち日本人はすっかり心身二元論を根本とする西洋哲学と同じように人間をみるようになってしまい、西洋文明のパラダイムのなかに強く、深く閉じ込められており、人間の正当な全体的理解を不可能にしてしまった。」(「ニュー・カウンセリング」の哲学の背景にある哲学より)と断言されたのではないだろうか。
それ故に、西洋文明の発展に偏り過ぎてしまった日本社会と人為・人工的なものに依存し続けている日本人にとって、自らに与えられた“いのち”の内につながっている「精神的生命(人間らしさ・人間性)」に気づくことが必要不可欠である。この「精神的生命」というものは、それぞれの人間に於ける「身体的・感覚的な気づき(Awareness)」を基盤にして培われていくものである。この「身体的・感覚的な気づき(Awareness)」は、伊東先生が指摘されたように、「身心は一如で、身も心もはたらくようにできているし、おのずから然るようにできている。」という「“いのち”の自然性」を覚知することであり、常に移ろいゆく自然(四季の変化)と共に生きる過程で敏にはたらく「真善美の感覚や感性」が培われることでもある。また、自分に与えられた“いのち”は「天地人のハタラキ」と共にはたらき、さまざまな「“いのち”のつながり」による恩恵によって照らされ生かされ育ってきたものであることに気づくことである。そして、それぞれの人間が、自分に与えられた“精神的生命”を受け継ぐ一人であるという自覚にも通じるものである。私たち日本人は、このような「身体的・感覚的な気づき(Awareness)」を「“いのち”の内観による覚知の過程」で深めていくことを大切にしていく必要があるのではないだろうか。
伊東先生は「自分なりのカウンセリング」を探求される過程で、「“いのち”の自然」というもの(人間性・人間らしさ・人間尊重ということにつながるもの)を求め続けてこられたのだろう。そして、私たちもまた、先生の教えを受け継いで、「“いのち”のおのずから然るハタラキや、おのずと生じてくる感覚をおろそかにしない生き方(“いのち”の自然にかえるあり方)」を求めて学習を続けているのである。
伊東先生は、『喜寿に生きて』(1996)という冊子の序文で、生前に次のようにご自身のことを語られた。
「私は、こんなに長く生き延びようとは思っていなかった。小さいときからからだが弱くて、父がたくさんいるきょうだいの中で私だけに、そのころにはぜいたくであった“ラクトーゲン”という粉ミルクを飲ませていたぐらいである。……30代後半には、肺結核にやられ、命つきるかと思った。成形手術によって左の肺を半分つぶして、やっと生き延びた。早死にすると思っていたのでクルマの免許も、五十歳までとらなかった。五十そこそこで死ぬだろうと思っていたのである。ところが、五十歳になったとき、なんだか生命に自信みたいなものを感じて、六十歳までは生きそうだという気が起こった。……」
伊東先生は50代に入り田原豊道先生(現日本ヨーガ学会会長)のヨーガを習い始め、さまざまに模索をしながら「からだ」にアプローチする実習を求めていかれた。そして、「センサリー・アウェアネス」との出合いをはじめ、ロロ・メイ著『美は世界を救う』に学ばれたり、アレクサンダーの「からだの自然な四つの方向」(to become more aware)やボリセンコの瞑想などを取り入れたりして、『身心一如のニュー・カウンセリング』という独自な教育方法を体系化していかれた。また、50歳を過ぎてからの伊東先生は、先生なりの養生法を求めて学習を積み重ねられ、「怠け者の60分健康法」を実践されるなど、ご自身が身を以て経験・実証された養生法を世の中に弘めていかれたのである。
伊東先生は、自著『身心一如のニュー・カウンセリング』のなかで、「今の日本人は、“立つこと”から始めなければならない状況にある、というのが、私の仮説の結論である。」と述べられた。「立つ」ということは人間存在の基盤であり、他に甘えたり寄りかかったりすることなく、自分にとっての絶対である「“いのち”の感覚」を感じ取りながら、それぞれがその場所に「立つ状態」になる過程を大切することである。そうした学習の過程で、「学んでいこう、伸びていこう、育っていこう」という、「“いのち”のハタラキ」を覚知することである。
また、伊東先生は、「きっと、私たちは、一生かかって“立つ”ことを学びつづけなければならないのかもしれない。」と述べられた。私たちは、自分自身の生き方として、これからも自分の置かれた場に「立つこと」を学び続けていく必要があるのではないだろうか。
このようなことが、人現会で共に学ぶ私たちが求めていく内容であり、今後の人現会の目指す具体的な方向なのである。
第5節 「ニュー・カウンセリング」にかえる
―人現会設立50周年の節目を機に、私たちの会のあり方を考える―
令和5年、人現会は設立50周年を迎えた。この大きな節目を契機として、この会で学習を続けてきた私たちは、会員それぞれにこれまでの学習の歩みを振り返り、自分にいま与えられている生活の場や今後の人生で、これからどのようなことを求めていくのか、あるいは何を大事にしていくのか、ということを改めて問いかけていきたい。
さて、昨今の世界情勢は、ウクライナでの戦争や、中国と台湾、あるいは北朝鮮と韓国や日本との間にある軍事的緊張など、「力の論理」で物事が解決されようとしている。現内閣が昨年末に決定した日本の防衛費の増額の問題では、相手の敵意を増長し、それはやがて戦争の恐怖につながって行きはしないか、不安になる。また、今から10年以上前に起こった東日本大震災により福島の原子力発電所で起きた事故の教訓から、地震の多い日本では原子力の危険性や核のゴミ問題が国民の間で認識されてきたと思うが、石油をはじめとするエネルギー資源の高騰により、資源のない日本では再び原子力発電の必要性が高まり、石油等の資源を拠り所にして物質的な豊かさを享受してきた私たちの文明社会は、この豊かさと更なる経済の成長を求めて人工的な社会へとさらに進もうとしている。
一方で、昨今の私たち日本人は、長い間に四季折々の自然のなかで培ってきた情緒や文化、繊細で豊かな心を見失い、お互いを思いやることよりも自己主張の拡大を意識し、またさまざまな情報に振り回されてきているのではないだろうか。
私たちは、このような日本人の実態に危機意識を抱いているだけではなく、私たちの子孫に受け継いでいきたい心願を懐くとき、自分たちにはいま何ができるだろうか。人現会設立50周年という機に、私たちのあり方を改めて問い直したい。
そこで、かつて伊東博先生が書かれた、人現会会報NO.34『「こんにちは」「ごくろうさま」「ありがとう」「すみません」』(1996.12.1)と、会報NO.41『「ニュー・カウンセリング」の哲学の背後にある哲学』(1999.11.20)の会長挨拶文の内容から、伊東先生ご自身が思い悩み、憂えながら思索していられたこと、あるいは伊東先生が問題提起された内容を再び取り上げてみよう。
一つ目は、今から26年前に述べられた伊東先生の見識である。
「日本人はいま、バラバラになって孤立している。というよりも、自分の利益しか考えない我利我利亡者の巣窟になっているような気がする。他の人に感謝することも、他の人を信頼することもできなくなって、ただオレばかりになっているのではないか。それは西洋から百年以上もかけてせっせと輸入した個人主義が、日本と日本人の本源的な集団思考性の現実の前で、ただウロウロするばかりになっている姿かもしれない。集団思考といえば、日本人の悪癖であるようにばかり言われてきたが、その中には、砂漠のような西洋個人主義から日本人を救う知恵が溢れているであろう。それは、日本人がこの百年の間に失ってきたものを思い出す、いや取り戻すということになるだろう。夏目漱石は、その西洋文化と日本人との間にある大きなギャップに気づいていたように思う。」
二つ目は、今から22年前の伊東先生の見識である。
「漱石は、明治維新以来、怒濤のように日本に押し寄せてきた西洋文明の危険性をよく知っていたようである。そして東洋文化に還ろうと言っている。戦後、西洋文明はさらに勢いを増して日本人を圧倒している。そしていま、日本社会の崩壊を象徴しているもろもろの問題(オウム、バブル、学校崩壊、その他すべての暗い問題)は、西洋文明と東洋文明(あるいは日本人)との間に生じた“きしみ”から起こっているのではないだろうか。東洋に帰る、自然に帰る、はニュー・カウンセリングの重要な基本哲学である。」
伊東先生は晩年、漱石を読み直し、このような学習を深めてこられた。先生は、漱石が『吾輩は猫である』のなかで述べた「東洋流の学問は消極的で大いに味わいがある。心そのものの修業をするのだから。」を引用され、「ニュー・カウンセリングは、漱石が“大いに味わいがある”と述べた“東洋流の学問”に帰りたいと思っている。」と述べられた。最晩年の漱石は、小説『明暗』を書きながら、午後には漢詩をつくったり南画を描いたりしていたようであるが、伊東先生もまた、そうした漱石に学んでいられたのではないだろうか。
また、私たちは、伊東先生が私たち後進への遺言のように述べられた、次の言葉の意味を改めて問い直してみる必要はないだろうか。
「鎖国―開国(明治維新)―第二次大戦の敗戦(西洋に追いつき追い越せ)
学校は西洋を教えるところだった。」
「西洋文明は、地球と人類を滅ぼそうとしている。漱石の一言一言が予言めいて聞こえる。
もうアルコール中毒から抜けられないのかもしれない。」
「あまりにも大問題なので、誰もにわかには賛成してくれないと思う。
しかし、本当に言いたかったことは、こんなことでした。」
(1999.7.21『「ニュー・カウンセリングの哲学」の背後にある哲学』より抜粋)
最後になるが、私は、伊東先生が遺されたこれらの言葉を基にして、次のような思索をしてきた。
(1)人間が作り出した人工物というのは、もっと速く、もっときれいに、もっと便利に、もっと楽に、というふうに、私たち人間の欲望を増長させ、脳に過度な刺激を与え続けてしまうものではないだろうか。それは、お釈迦様が気づかれたような叡智をはじめ、東洋で大事にされてきた教えから遠ざかってしまうように思えてくる。
たとえば、個人尊重ということから我見を善いものだとする考え方を助長し、人間の不浄な面とか憂いとか現実の裡にある負の部分を覆い隠し、人生がそもそも苦であり、また無常であり、“いのち”が変化し続けている事実を忘れさせてしまうのではないだろうか。また、簡単に手に入るさまざまな情報や物に我欲が刺激され、目先の利害に心を奪われて、自分自身の「人間性(徳)への気づき」といったことがおろそかになってしまうのではないだろうか。そして、人間の作為や操作はお互いの不信感へとつながり、自然の産物である「からだ」、「“いのち”の自然」といったことに目が向かなくなってしまうのではないだろうか。さらに、自分自身の“いのち”の実感をよく感じ取れなくなり、足が地に着かなくなって、本当の安心や幸福といったことが分からなくなってしまうではないだろうか。一見明るく快楽のある「陽の面(ハタラキ)」が強調されて、誰もが抱かざるを得ない憂いや不条理、不浄、苦といった「陰の面(ハタラキ)」が正当に意識されなくなり、私たちの“いのち”は全一なバランスやリズムを失って、不健康になっているように思えてくる。伊東先生は、この「リズムやバランス」の問題を生き方全体につながるものであると指摘されたが、健康に生きていくためには、この「リズムやバランス」の問題は本当に欠かすことのできないものだろう。
また、老いも死も、おのずから然る「“いのち”のハタラキ」であり、そこには作為はなく、老いも死もありのままに受け止め受け容れていけばよいのではないだろうか。
そして、私たち人間は、やがておのずと“いのち”の根にかえっていくのだろうと思うのである。
(2)自分と他者、自分と環境、というふうに物事を分けて考えることは「脳のハタラキ」であり、そうした物事を二分していく思考は、そうした思考が優先されているとき、そもそもお互いが複雑につながり合っていることを、「“いのち”の実感」としては分からなくしてしまうのではないだろうか。人類は物事を分けて考えることによりさまざまな科学的知見を見出して科学技術を発展させてきたのだろうが、科学的知見というような合理性や論理性、実証性といった価値観が過大視され、それぞれの人間のそれぞれの“いのち(性命)のハタラキ”、それぞれの“いのち”の性質や過程、それぞれの感覚を通した気づき(Awareness)に基づく「自己の修養」といった問題は軽んじられてきたのではないだろうか。
「日本のカウンセリング」の草分けである友田不二男(1917-2005)先生は、漱石が朝日新聞社員として当時の東京美術学校(今の東京芸術大学)文学会の開会式に於いて学生を相手に語った、「天地すなわち自己」(『文芸の哲学的基礎』)という言葉を引用され、「天地自然の間に存在するところの自己」というものを明らかにされた。
そして、伊東先生は、ワークショップでの実践を通して、「人間は身心一如である」と、自らの実感を繰り返し述べられた。私もまた、この「一如」という見方やあり方を求め続けている。西洋哲学は、物と心を二つに分けて実に膨大な科学的知見を生み出し、さまざまな物質や機械を作り出して文明を発達させてきた。しかし、その結果、人類を破滅させていくような核兵器を作り、自然破壊にとどまらず地球上のさまざまなバランスを狂わせ、私たち人間の心身の分裂を根源とするさまざまな負の社会現象をも生み出してきたように思われる。物事に両方いいことはないのである。
伊東先生は、自著『身心一如のニュー・カウンセリング』のなかで、チャールズ・ブルックスの言葉を引用され、「その(心身の分裂の)危険性に気づいている人はひとりもいないでしょう、といった方が現実的であろう。」と述べられた。この「心身の分裂」の問題は、伊東先生が指摘された「西洋文明の疑惑」の一つだろうと思われる。
「私たちの生活は、西洋文明の恩恵をあまりにも深く受けているので、その弊害については、環境問題が云々されるまで、あまりふれられなかった。しかし、漱石の言うように、今ごろ気が付いてももう遅いのかもしれない。」(人現会会報NO.41『「ニュー・カウンセリング」の哲学の背後にある哲学』)
そして、伊東先生が、私たち後進に対して、「東洋への回帰を ―それは、自然への回帰、人間への回帰である。」(会報NO.41)と、述べられた。
また、先生は、『老子』64章の「輔萬物之自然而不敢為」に示されている、「おのずからしかるところ」「おのずからそうであるところ」「おのずからそうなるところ」の重みについて語られた。
さらに、先生は、シャーロット・セルヴァーの「センサリー・アウェアネス」や、「アレクサンダー・テクニーク」は、西洋で生まれたものの中で、めずらしく、「自然にかえること」をやっている、と指摘された。(1999.7.21)
私は、伊東先生が述べられた「東洋への回帰」とは、「東洋の叡智にかえる」ことだろうと考えている。その「東洋の叡智」とは、次のようなことではないだろうか。
1 自然(おのずから然るもの)に随うこと
2 「“いのち”のハタラキ」と一如(そのもの)になること 相手の身となること
身心一如であること
3 行住坐臥をはじめ、動くこと、生活そのものの裡に“いのち”を静かに内観し気づきを深めること
身体を動かしておのずと生じた感覚により「新たな自己」に目覚めていくこと 身体的・感覚的な気づき(Awareness)に意識を向け続けていくこと
4 実行を重んじること
自分自身の成長と成熟に向かう“行”(修養)を求めていくこと
このような「東洋への回帰 ―自然への回帰、人間への回帰」の学習ができる一つの機会として、人現会では「ニュー・カウンセリング」を社会に提案していくことができるのではないだろうか。私は、伊東先生が探求され体系化された「ニュー・カウンセリング」には、次のような意義があるのだろうと考えている。
それは、病気にならないような健康な身心をつくる「“いのち”の養生法」であり、「well-beingな生活や生き方」につながる体験の場を提供できること。
また、行住坐臥を中心に動くことを通して、人間における生来の「“いのち”の自然」に気づく具体的な実習を提供できること。
そして、私たち日本人にとって、「自然にかえる」という、「東洋の叡智(東洋で求められてきたあり方)」に立ち戻る学習の場を提供できることである。
草花や野鳥など、天地自然はいつもありのままの姿で私たちに豊かな気づきを与えているのではないだろうか。私たち日本人は、四季おりおりの自然と共に生活しながら情緒を育み、ありのままの自然を愛でて風流を感じて気づき(Awareness)を深め、すばらしい文化を受け継いできたのではないだろうか。
また、日常の些事にも繊細な心をつかい、「おかげさまで」という言葉が示しているように、天地自然やさまざまな人とのつながりに感謝する心や、「もったいない」と物を惜しむ心、慎みや思いやりといった心を大切にしてきたのではないだろうか。
さらに、日本人は、この「おかげさま」「お世話様」「お互い様」というように、相手に対する敬意をもつことを当たり前のように感じて言動してきたのではないだろうか。それは、自然に対しておのずから「畏敬の念」を懐きながら生活をしてきた文化があると思うのである。
私たちは今、人現会設立50周年の機に、改めて「“いのち”の自然」と一如になり、自然の摂理に学んできた私たち日本人の心を取り戻し、それぞれの人間がそれぞれの「“いのち”の自然(おのずから然る“いのち”のハタラキや感覚)」を回復できるように、「身心一如のニュー・カウンセリング」にかえることが必要ではないだろうか。この会がそうした学習を分かち合える場となるように、それぞれの会員が感じていることや取り組んでいることを紹介し合い、また感想を分かち合い、学び合っていきたいものである。