「“いのち”の自然」を味わいながら生きる
令和6年12月22日、冬至の翌日、『易経』で云う「一陽来復」の日、陰極まって陽に転ずることを願いつつ、私は町田で行われている人現会の勉強会へ出かけた。
戦争が容易に収まらない国際社会、地球環境に与えている負荷を相変わらず増大させている文明社会、日本社会でも考えられないような事件が後を絶たず安心できない地域社会の状況が続き、教育界では教員のなり手が減り精神疾患で休職する教員も増え、AIの進化に恐怖すら覚える今日、子どもたちは情報機器に慣れ親しむ一方、身体を通して学ぶ経験がますます減ってしまった現実に対して、私はさまざまな危惧をしながらも自分にできることは何だろうかと考えてきた。12月の勉強会では、お互いにこのような問題意識を出し合うことから学習が始まった。
そして、身体をゆっくりタッピングする実習を行った。私の身体は温かくなり呼吸が生き生きと働き始めたように思われた。伊東博先生は、『身心一如のニュー・カウンセリング』のなかで、次のようなニーチェの言葉を引用されている。
ニーチェ「わたしは身体であり魂である。」
「わたしはどこまでも身体であり、それ以外の何物でもない。……」
「身体はひとつの理性だ。ひとつの意味をもった複雑である。……」
「わが兄弟よ、あなたの思想と感情の背後には、強力な支配者、
知られざる賢者がひかえている、―それが本物の<おのれ>というもの
なのだ。あなたの身体のなかに、かれは住んでいる。あなたの身体は、
かれなのだ。」 (ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』)
私は実習で身体をタッピングしているとき、この身体が私であるのだろうと思った。日頃、私は身体を忘れて脳に意識を集中させていることに気づいた。短時間タッピングをするだけで、私の身体は目覚めて行った。呼吸もおのずから変化し始めた。
伊東先生は、「動くからだ」「生きて動いているからだ」が「ニュー・カウンセリング」の重要な焦点であると述べられた。また、先生は、道元禅師の『正法眼蔵』「辨道話」のなかの一節「仏法はもとより身心一如にして、性相不二なり(性質と姿・形とは二つのものではない)と談ずる。……身と心とを分くことなし。」を引用され、「ニュー・カウンセリング」の実習では、「身心は一如である」(身心はいつでも一緒に、同時に機能している)ことを思い知らされると述べられた。
ところで、哲学者の西田幾多郎(1870-1945)は、「我々の身体もやはり自己の意識現象の一部に過ぎない。」(『善の研究』)と述べ、私たちの意識現象の具体的事実そのままを知る「純粋経験」(直接経験)についての思索を深められた。そして、「純粋経験こそが唯一の実在である」、また「真に具体的実在としての自然」といった考えを述べている。
ニーチェの言葉を真似て、意識の探究をする自分について述べてみると、「わたし(私という者)はどこまでも現在意識のなかに在り、わたしは“いのち”の意識現象をそのまま知る純粋経験をしている。わたし(私という者)は、“いのち”に内在する絶対矛盾を統一しようとする(自己同一する)意識の働きそのものである。」ということになるだろう。
私は今、このような「動くからだ」(どのように動いているのか・どのように日常の些事や人や物事と関わっているのか)、「生きて動いているからだ」(この“いのち”がどのようにはたらいているのか)、「身心が一如であること」(身心がどのように存在しているのか)の現在意識、すなわち具体的実在の事実をそのまま知っていくことを求めている。この探求の基盤となるのが、自らの行住坐臥を調えること(自分がその時々でどのような立居振舞をしているのかという身体意識を持つこと)であり、食事や睡眠、姿勢や呼吸に気をつけて生活のリズムやバランスを調える「“いのち”の養生」であると考えている。また、伊東博先生が指摘されたように、「文化や教養を身につけ、そうした教養から発するゆとりのようなものが必要だろう。」(『身心一如のニュー・カウンセリング』)と考えているのである。
西田幾多郎は、「石川県西田幾多郎記念哲学館」の資料によると、終生『万葉集』を愛読し、深い心が込められた短歌を二百首ほど残されていると云う。また、ゲーテやボードレールの詩を自ら訳し、「ゲーテの背景」「美の本質」といった論文を書かれている。そして、西田先生は、ギリシャの哲学者プロチノス(著書に『善なるもの一なるもの』がある)に学んで「一者について」といった論文も残されている。さらに、西田の書は、次第に天衣無縫といった書風になり、晩年の書には良寛を思わせるものがあったようである。
少し横道に逸れてしまったが、私は、「純粋経験の事実」、即ち「未だ知情意の分離なく、唯一の活動であるように、また未だ主観客観の対立もない、真の具体的実在」(『善の研究』)に目覚めることは、「センサリー・アウェアネス」や「ニュー・カウンセリング」の実習の核心であり、「“いのち”の自然を味わいながら生きる」ことであると考えている。私は今、人現会の研修を通してこのような意識の探究を続けているのである。
このように、「“いのち”の自然」(おのずから然る“いのち”のハタラキ)とは、私たちの意識現象に於ける具体的事実であり、情意という直接経験の事実であり、「真に具体的実在としての自然」のことである。私たちの“いのち”の内には絶対矛盾の衝突があり、またその矛盾・対立を統一しようとするハタラキがある。その統一しようとするハタラキを感じ取り、その具体的事実そのままを知ること。その意識統一の働きから確かな思惟が生まれ、足が地に着いていくように意志が育っていく。そして、私たちは、この「純粋経験」の具体的事実である感覚をそのまま「知的直観」によって感じ取り、意識の統一作用そのものである「真の自己」を知っていくのである。
私は、『善の研究』(第一編「純粋経験」および第二編「実在」)を読み、これまで述べてきたような「純粋経験」の価値と意義を学習してきた。私たちの日常にある「真心」や「誠実」、あるいは「美意識」「感性」、「共感」「思いやり」「共通感覚」といった課題は、この「純粋経験」から生じて来るものだろう。また、この「純粋経験」に基づかない知識や科学はそれぞれの人間が「真の自己を知る」ことから遠ざかっていくだろうと考えている。そして、今日の教育問題に限らず、地域社会から地球環境までに至るさまざまな問題を生じさせてきた要因には、この「純粋経験」が軽視され、あるいは無視されてきたことがその根本にあるのではないかと考えているのである。
ところで、今回の勉強会では、勉強会のメンバーから、「日常生活のなかでは、ワークショップで実感したような感動をいつの間にか忘れ、そうした感動に目を向けることがなくなっているのだが、どうしたらよいだろうか。」といった問題が出された。私の日常もまた同じなのかもしれないと思いながらも、私たちは「生きて変化し続けている自然に直に触れる」ことで、自分自身の「“いのち”の自然」もまたそれに呼応し、無邪気な子どもが感動しているように、おのずと目覚めていくのではないだろうか。私たちの身体は自然そのものである。それは「抽象的概念としての自然」ではなく、「真に具体的実在としての自然」なのである。
たとえば、野鳥の声を聞いてその声(その直接経験の事実)に私たちの情意が生じ(“いのち”の呼応が生まれて)、私たちの意識にその時々の具体的実在が現前して来る。私は「ウォーキング」という「動くからだ」を通して、移り変わる(生きてはたらいている)自然と一如になり、私自身の“いのち”の躍動を感じることがある。私は今、このような「“いのち”が純粋経験していること」を大切にしていきたいと思っており、私はそれを「“いのち”の自然を味わいながら生きる」ことだと理解しているのである。
「“いのち”の自然」それ自体に気づくことから、「“いのち”の自然」を意識しながら生活すること。そして、「“いのち”の自然」を味わっていくこと。それは、一方では、意識の裡にあるどうにもならない矛盾や対立、渾沌とした“いのち”の状態を知ることでもある。たとえば、老いるということ、新しい病苦が生じるということ、“いのち”の不浄を実感すること、次第に動けなくなるということ、自分ではどうにもならなくなる末期への不安が増していくということである。同時に一方では、その絶対矛盾を受け止めて許し(allowing)、調律(tuned in)・調和・統一(自己同一)する働きに気づくことでもある。たとえば、子どもたちの元気に癒やされる嬉しさを感じること、健康の有り難さがわかること、“いのち”の尊さが実感されること、老いて初めて見える景色や初めて聞こえる声に驚くということである。私たちは、このような「“いのち”の自然」をそのまま「純粋経験」しながら生きているのである。
西田幾多郎は、後者の「意識の統一作用」について、『善の研究』のなかで、次のような思索をされている。
西田「精神は実在の統一作用であって、大なる精神は自然と一致するのであるから、我々は小なる自己をもって自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って幸福となる。」
「自然を深く理解せば、その根柢において精神的統一を認めねばならず、また完全なる真の精神とは自然と合一した精神でなければならぬ。……我々の欲望は大なる統一を求むるより起こるので、この統一が達せられた時が喜悦である。」
古来より東洋の先達は、「天地同根」「天人合一」「物我一如」「天地人三才(三つのハタラキ)」といった表現を用いて、大自然と一如になる境地を求めてきた。西田は、「意識の根柢」(“いのち”の根柢)で「自己を越えたところの不変の統一力が働いている」と確信され、日々の「純粋経験」の範囲を人の一生の「意識の大系」へと拡大して思索を深めていかれた。私は死に向かう残生に於いて、西田幾多郎の如く、古来より多くの先達が求めてきたような「自然と合一した精神」「大なる自己の統一」を求めながら「“いのち”の成熟」を為していきたいものだと思っているのである。 (令和7年1月)
追伸
人現会の勉強会では、ZOOMによるオンラインでの参加も可能です。短時間ですが、「センサリー・アウェアネス」あるいは「ニュー・カウンセリング」の実習を一つ行い、その後、勉強会のメンバーが提供する話題について意見交換をしています。およそ1ヶ月に1回、日曜日の午後1時頃より3時頃まで行われています。ご関心のある方は、勉強会の日時やオンライン参加のアドレス等をお知らせしますので、人現会のホームページ上の「お問い合わせ」に申し込みくださるか、人現会名簿をご覧になり、勉強会の事務局をしてくださっている小池治道先生、あるいは伊藤稔会長、研修担当の富塚精一までお知らせいただければ対応いたします。登録いただければ必要な情報を毎回お送りし、ご都合のよい時にご参加いただければと思います。ご連絡をお待ちしています。