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シャーロット・セルバーの若き日の人生とセンサリー・アウェアネスの探求

1999年に行われたシャーロットセルバーのワークショップの1セッション

”Charlotte Selver About Her Early Life and Study" ( Green Gulch Farm, December 5, 1999)を

サイトチームの家田智子さんが翻訳してくださいました。10月17日の勉強会で発表したものです。



「シャーロット・セルバーの若き日の人生とセンサリー・アウェアネスの探求」

 
 
セルバー:私が初めてエルサ ギンドラーに会った頃、彼女は呼吸にとても興味を持っていて、呼吸の研究にもっと自分の人生を捧げようと決めた時でした。  彼女はこの時期、自分のからだを生き生きと扱っていました。そして、からだには非常にポジティブな傾向があることを発見しました。例えば、からだには自身を回復させる傾向があります。 私たちがあれこれしなくても、からだが自分自身を癒すのです。 からだには自身を回復させ、バランスを整える傾向があります。たとえば 道を歩いていて、つまずいて倒れそうになっても、またバランスを取り戻すようなことです。 さらに良いことに、からだは自ずからバランスを取り戻すのです。
 
彼女はからだが自身を癒すという静かな傾向(quiet tendency)を探求する中で、何をせずとも全てが自然に起こるという、非常に重要で肯定的な身体の潜在能力を発見しました。それからというもの、彼女は教えることを一切やめました。「私は教えたくない。 私は発見をしたいのです。学びたいのです。私と一緒に学んで発見したい人なら誰でも大歓迎です。私はもうこれ以上教えるという事はしたくないのです」と彼女は言っていました。 私たちが一緒に過ごした時間は素晴らしいものでした。どんな些細な反応や発見でも、とても真剣に受け止められました。 私たち一人一人が、いわば彼女のモルモットだったのです。 私たちは発見の対象であり、私たち一人一人が見つけたこと、発見したことは何であれ、とても真剣に受け止められました。 そして、徐々にギンドラーの、神経、器官で何が起こっているのかを感じ取るという研究(ワーク)が生まれました 。 私たちは毎日研究をしていました。朝は1時間半、呼吸法を学び、その後かなりの時間を彼女と一緒に私たちのからだの内面の働きについて学びました。 また、私たちの動きやどのようにからだを働かせているか、どのように立ち、どのようにバランスをとっているか、そしてどのように困難な課題へ取り組んでいるかなども学びました。 どのようにして困難な大きな問題を克服したか。 どのように他の人にアプローチするか、どのように彼らと話すか。 どのように彼らと接触するか、また、身体的にどう彼らと接触するのか。 どのようにして人をより休ませるか、より生き生きとさせるか、よりバランスのとれた状態にするか、とにかく何でもいいのです。だから、私たちはお互いを、時には一緒に、そして時には一人で研究しました。その研究の時間は終わりのないものでした。 私たちは実質的に丸一日、彼女と一緒に、あるいは何らかの課題に費やしていました。それを後で報告するのですが、彼女は私たちが特定のストレスにどのような反応をしたのかに非常に深い関心を持っていました。 私たちが友人にどのように反応したか、そして敵対する人たちにはどのように反応したか、など。
 
言い換えれば 深い人間性の研究だったのです。私たちはエルザ・ギンドラーと 何年も一緒にいました。振り返ってみると、私は11年間彼女と過ごしたことになります。 その後、アメリカにいた時は、夏になると、彼女のバケーションコースに行って、勉強を続けました。 それは素晴らしい経験でした。 私たちは、人生で重要な時、困難な時、楽しい時にどんな事が起こったかを報告し合いました。私たちがその時にどのように行動し、どう反応し、人間関係では何が起こり、問題にはどう対処したかなどを話しました。 それは、人としてできるすべてのことを包み込んでいました。今から私たちもお互いに同じようなことができたらと思っています。 実際のところ、あなたがここで受けた、またはこれから受けるであろう、数少ないセッションが、あなたの生活にどのような影響を与えるのか、他の人や家族とのつながりや、仕事にどのような影響を与えるのかなど、私は非常に深い関心を持っています。 ですから、これはあなたがよく思うような、身体に働きかける何かなのではなくて、その人自身に働きかけることなのです。 昨日、私はからだについて湧き上がってきた質問に真剣に向き合いました。 誰もが自分自身とからだについて話していました。 私はこう思ったのです。みんな、本当に自分とからだのようなものがあると思っているのだろうか? そして、誰がこの質問に興味を持つだろうか? これは、とても奇妙で、言葉はとてもかしこいです。 あなたは「誰か(somebody:あるからだ)が、うちにいますか?」「誰か(anybody:あるからだ)を見ましたか?」と言います。それはどういう意味なのでしょうか? 私はどこにいて、からだはどこにあるのでしょうか? だから、somebody:あるからだ、anybody:あるからだ。そこに座っているのは確かにあなたで、私はあなたに触れることができ、私の声を聞くことができ、歩いたり、ジャンプしたり、ためらうこともできる。
 
私の発見とは、私は誰かであり、あなたは誰かであり、この誰かは別の誰かを相手にしているということです。言い換えれば、私自身と私の思考や感情、そして私たちがからだと呼ぶものとの分離は、非常に危険なことなのです。私がエーリッヒ・フロムと一緒にワークをした時、彼はこれを二分法と名付けました。人が二つに分かれるということです。人が完全に一つであることができないのです。だから、私たちがすることは何でも、例えばワークをしているときに経験した中で、あなたが深く感動して、それを追いかけたり、または、それに一生追いかけられたりすること、それがあなたなのです。たとえあなたがそうしたかったにせよ あなたは自分の体と呼ぶものに取り組んできました。それは肉体と私ではなく、からだである私なのです。私とは、私がいる状態の私であり、私がもともと持っている能力であり、私としての反応であり、全体としての一つの存在です。そして、私がワークをするとき、あなたが自分のからだと呼んでいるもののために何かをすることを少しずつやめてほしいのです。 新鮮な空気を吸ったり、走ったり、体を綺麗に洗ったり、体にオイルを塗ったり、あなたがすること何もかもです。それらは、あなたのためにやっているのです。あなたのからだのためだけにやっているのではありません。わかりますか?この「存在する」ということと「からだ」の切れ目が少しずつ橋渡しされて近づいていけば、素晴らしいことだと思います。 そして徐々に、私たちが生きているすべての瞬間、私たちが呼吸するすべての瞬間、私たちが行動するすべての瞬間を感じられますが、あなたがからだと呼ぶものの存在がなければ感じられません。 精神的なものと肉体的なものを同時に持っているというのは、身体の素晴らしい能力なのです。 あなたがワークをするとき、リーや他の人とワークをするとき、常に自分を二つに分けないように気をつけてください。 自分自身の明晰さ、能力、強さ、回復力、知性、そして自分の心のためにやっているのだと感じるのです。 これはとても重要なことです。 だから、私は一旦ここで少し止まって、皆さんに尋ねたいと思います。今までのことを聞いてどう思いましたか?何か質問はありますか? 
 
生徒1:シャーロット、エルザ・ギンドラーを探そうと思ったのはなぜですか?あなたの自己探究のきっかけとなった質問は何ですか? 
 
セルバー:いい質問ですね(笑)まずは私自身のことを少しお話させてください。私は、子供の頃から、音楽が私の人生の全てでした。11歳の時に両親がグランドピアノを買ってくれたのですが、私はいつもずっとピアノの上に座って遊んでいました。ピアノの先生が毎週水曜に来ていました。父は仕事から帰ってくると、音楽室に来て座ります。ピアノの先生は、まず私にレッスンを受けさせて、「もっと頑張れ」と諌めてくれました(笑)。 それから先生が何かを弾き始めて、「この作曲家は誰?」と聞いてくるので、私はそれに答えなければなりませんでした。それで、その後、父は先生と私に弾くようにというのです。音楽のレッスンを受けて、父が私が弾くのを聞き、父が弾いているのを聞く、これは私にとって本当にお祭りのようでした。そして私はこう言いました。「これはシューマン、これはシューベルト、これはベートーベン」、などと言っていました。 すると音楽の先生は 「その通り」、「いえ、違います」、などと言っていました。 だから、これは私にとって週の真ん中のお祭りみたいなものでした。 でも、家にいて良かったことと言えばそれだけです。 私の母は竜のような恐ろしい人だったんです。 私たちの家では、これは駄目でこれはいい、そのどちらかでした。 自分の心に従って何かをするなんてことはありませんでした。 母がイエスと言うかノーと言うか、それに従って行動しました。後に私には妹ができました。でも、私と妹は全く違っていたので、私はほとんど一人で人生を過ごしたようなものでした。妹は家にいて、料理や家事など家の中のことに興味を持っていました。私はいつもどこかに飛んでいました。飛行機の中でもできないことがいろいろありましたが、私はどうにかしてそれらのことをしていました。制限の中で可能性を見つけてやってこられたのは、私が常に嘘をついていたからです。 すべてが嘘だったんですよ。朝から晩までずっと嘘をついていました。 (グループ笑)
 
私にはもう何が真実なのか分からなくなっていました。 ある時、父は私が従わざるをえなくなるような事を言いました。父はライン川の橋を渡っていました。私たちはライン川の近くに住んでいました。「シャーロット、お母さんにイエスと言わないと、劇場にも、コンサートには行けなくなるぞ。賢明になりなさい!」と父は言いました。私は、「でも母はこう言ったの」「でも母は...」と言っていました。いつもこの言い争いをしていました。だから、ピアノの前に座るか食べるか、それしかなくて、私はどんどん太っていきました(もっと笑)。 私は全く動かなかったんです!(笑)。私にはダンスをしているいとこがいました。彼女は私を見てこう言ったんです。「どうしてそうなったの? それでは外に出れないわ。なんとかしなければ。」「動かないといけないわ!」と言われました。動く、ですって?(笑) 子供の頃にダンスのレッスンを受けていた時は、男の子は誰も私に興味を持ってくれませんでした。 彼らはただ単に私を動かすことができなかったのです。 私の体は凝り固まっていて、地面に釘付けにされていましたからね。 だから、いとこは「あなたは動かないと」と言ったのです。 
 
そこで、周りを見渡してみたのです。どうしたら動けるのか? そもそも動くのが苦手なんですよ!(笑)でも、ついに、音楽と動くことを結びつけた勉強がある事を見つけたんです。 当時ドイツに住んでいた私は、私はドイツ出身なのですが、そこにルドルフ・ボーデ博士という人がいたんです。 彼のことを聞いたことがありますか?あなた達は若すぎますね。 彼は、ピアノを弾くと生徒がピアノに合わせて動くという事をやっていました。 ある動きを見せて、それから、それに合わせて揺れたり、持ち上げたり、回ったりといろんな動きをするのです。私はその動きを学ぶために入学しました。私の先生であるボーデ先生は、必死になってこう言いました。「世界には他にも素晴らしい職業がたくさんあるのに、一体全体どうして、あなたはこれを選ぶのですか? あなたには全く才能がないのに!」私は悔しくて歯軋りして、今に見てなさいと思いました。私の同級生で、彼のお気に入りの生徒の一人が、私のところに来てこう言ったのです。「ヴィータ」、その当時私は 「ヴィータ 」と呼ばれていたんです。「気にしないで!あなたがあなた自身のピラミッドなのよ」と彼女は言いました。でも、私には何だかわからなかった。先生はずっと私に怒鳴っていましたから。 でも、とうとう2年が経ち、勉強も終わりを迎え、ドイツでは誰もがムーブメントの勉強をしたいと思っていた時でした。 その頃のドイツでは、大きな新しい波が来ていました。 だからそのムーブメントを教えられる人が必要とされていました。最終日に、ボーデ先生が私たちの列に来てくれて、みんなに話しかけて祝ってくれました。この人のここが良かった、あの人はここが良かったと言ってくれました。そして私のところにやってきて立ち止まりました。そしてこう言ったのです。「あなたは自分の道を行くでしょう。話もできるしピアノも弾ける。」私が彼から学んだことについては何も言ってくれませんでした。話もできるしピアノも弾ける。つまり、それは私へのお別れでした。それで私は ・・・へ行きました。当時は、ドイツでは誰もが何かをやりたがっていました。そしてこれはドイツでは全て新しいものだったので、すぐに私たちはたくさんの生徒を得ることができました。
 
私の共同研究者の一人に、名前を聞いたことがあるかもしれませんが、ヒンリッヒ・メダウという人がいました。 メダウの名前を聞いたことがある人はいますか? 私が年寄りすぎるのね。(笑) メダウは私よりも少し年上で、すでに試験を受けていました。そして、彼はこう言ったんです。「ヴィータ」、ヴィータとは私のことです、「ベルリンを征服しに行こう」と。 それで、私たちはベルリンに行って、クラスをすることになりました。 クラスをした最初の週のことは今でも覚えています。 そこはアイスレーベンという街でした。 アイスレーベンはマルティン・ルターが生まれた街です。 そして、体操をする40人の男性がいました。 体育館のような部屋に案内され、そこに40人の男性がいました。 私の心は沈みました。 そして彼はこう言いました。"今から、セルバーさんが彼女のワークについて少し話してくれます。」 この時、私は喉が麻痺してしまって話すことができませんでした。 そして2週間、一言もしゃべらずにずっとワークをしていました。 やったことはただ動きのみでした。 それが私のワークの始まりでした。 誰もが体操やボーデ・ジムナスティクをやりたがっていたので、それを教えられる私とヘンリック・メダウはある意味とても祝福されました。私たちはあちこちに教えにいきました。 月曜はここ、火曜はあそこ、という感じで、月曜から木曜まであちこちにいきました。夜はいつもホテルに泊まっていて、毎週同じホテルの部屋で一晩過ごして帰ってくる日々でした。 ですから、当時の私たちはちょっとしたスターのようでした。 最初にクラスがあって、その後に祝賀会がありました。 当時の生徒たちにとって何が重要だったのかは分からないけど、とにかく、長い時間をかけて、あちこちを回っていました。 金曜日には、恋人のいるライプツィヒに行って、後に結婚することになるその恋人と週末を過ごしていました。 だから、私の名前はシャーロット・セルヴァーなのです。 それが彼の名前でした。 その後、何度か結婚しましたが、他の名前を名乗ることはありませんでした(笑)。 そんなわけで、私は、えーっと、、、何を話していたかしら、、、 
 
生徒1:シャーロット、質問はエルサ・ギンドラーを探すきっかけになったものは何ですか?ということでした。
 
セルバー:ご存知のように、当時は世界大戦後で、誰もが何か新しいものを求めていました。 ちょうどその頃、ドイツのドレスデンの近くにあるヘレラウというところで、世界中の若者の集まりがありました。オーストラリア、カナダなどのあらゆる国から、世界中の若者が教授や先生達と一緒に来て、そこで1週間過ごしました。それはとても興味深い時間でした。 彼らはダンスを披露し、教授たちは哲学などについて話しました...。世界中の人々が、新しい考えやアイデアを交換しました。午前中はいつも体育のクラスがあったのですが、ある日の朝、体育のクラスを担当した医師が、クラスの後に私のところに来てこう言いました。「あなたは動きと何か関わりがあることをやっているようですけど、エルサ・ギンドラーのことを聞いたことがありますか?」と。 私は彼女について何も聞いたことがありませんでした。 彼女は「もしベルリンに来ることがあったら、彼女のことを調べてみてください。 彼女は私に素晴らしいことをしてくれたんですよ。」 と言いました。そのことは私の記憶に残りました。 しばらくベルリンに行くことはありませんでしたが、それから2年後にベルリンに来た時、あの女性から聞いた印象的な話を思い出しました。 それで電話帳で住所を調べて、ある日、彼女のスタジオに行ってみたんです。 彼女は当時、ジャンプの研究をしていたと記憶しています。 ジャンプは私にとってとても怖いものでした。 
 
そこで、彼女はこう言ったのです。「床を踏み台にしてみない?」  床を踏み台に? 私には理解できませんでしたが、彼女はさらにこう尋ねました。「本当にジャンプしたいの?」  ジャンプしたいかと言われたら、もうそれはタスクです。タスクならば、私はやるしかありません。 私は圧倒されました。 彼女のところに行ってこう言いました。「あなたと一緒に勉強したいのだけど 」と。 彼女は私を上から下まで見ていました。 彼女は私の動きを見て、私がボーデを学んだことがあるとすぐにわかったようです。 彼女は言いました。「あなたはボーデ・ジムナスティクをやっているの?」  私は「はい」と答えました。 彼女は言いました。「うまくいってるの?」  私には3、4人の生徒がいたので、「はい」と答えました。そしたら 彼女は、「それなら続けなさい!さようなら」と言いました。 (笑)ある時我慢できなくなって、また会いに行きました。 すると、彼女は私を見てこう言ったんです。「また来たのね。 あなたはまだボーデ博士とやっているの?」「はい」「それなら続けて!さようなら」と。  2回目もまた追い出されました。 私は耐えられませんでした(笑)。 それで3回目に行ったら、彼女は「また来たの!?」と言いました。 私は床に立ったまま出て行きませんでした。そこで彼女は「もし、あなたが本当に勉強したいと思っているのなら、あなたを受け入れます。 でも、あなたにとってはとても難しいことになると思います。」と。 私は彼女のクラスに行けるようになったことがとても嬉しかった。
 
クラスは難しかったと思いますか? いえ、少しも。 彼女が話す事はまるで、私の心の中をそのまま話しているような気がしました。 私はすべて理解できました。 ひとつだけわからなかったのは、 彼女は私を見なかったことです。 彼女は全く私を見ようとしなかったのです!彼女は、私があまりにも不自然なので、それに耐えられなかったのでしょう。 それが1年ほど続きました。 私はとても幸せでした。彼女が言うこと全てにその通りだと感じていました。 彼女がすることはすべて、私の心の中にあるものと同じで、私はすべてを理解していました。ある日、私には動いたという実感すらなかったのですが、彼女が私のところに来て、私の肩に手を置いてこう言いました。「ついに初めての動きができましたね!」と。  私は自分が動いたことさえ感じていなかったのです。この瞬間から、私の今までの動作はすべて不自然なものだったのだと気づきました。 私の行動はすべて心からのものではなく、十分に感じてないものだったのです。 それからは恐ろしい時間が始まりました。 自分への偽りを感じ、動作が鈍くなったのです。すべてがひどかったのです。 私じゃない私がこれまで学んできたものが、私にとって巨大なものになり始め、何をやっても違うと感じるようになったのです。 だから、長い時間がかかったし、私だけでなく、エルサ・ギンドラーもかわいそうに、私を見て彼女も苦しんだのです。 私は次第に彼女の意図が何であったのか、そして本当の動作とは何か、素直さとは何かを理解するようになりました。 私は嘘の網から出てくることができたのです。 これは私にとって非常に重要な時でした。それで...先ほども言ったように、11年間彼女と一緒に勉強しました。 彼女と一緒にいないときは、自分が人生で経験したことを観察しました。自分の人生への姿勢や生き方がそこに関係するからです。その経験にどのように取り組み、そこから何を学び、どんな疑問を持ったかをレポートにまとめて彼女に提出しました。 クラスでは、グループ全体で話し合ったり、一人で話したりしていました。それは私にとってとても大切な自分との時間でした。 その後、戦争が起こり、ヒトラーがでてきたのですが…
 
私の人生にはたくさんの本当にたくさんの幸運がありました。ある時期、私は療養のためにブラックフォレストにあるペンションにいました。そこは休養するために、家族や独身者が過ごす場所で、ある日私はテーブルに座っていたのですが、隣のテーブルに夫婦と2人の子供がいました。子供たちはボールで遊んでいました。ボールで遊ぶことは、ボーデ・ジムナスティックの私が大好きなワークの一つで、いつもよくボールで遊んでいました。ボールとジャンプしたり、ボールをキャッチして寝転がったり、空中にいたり、走ったり、ボールからたくさんのことを学びました。子どもたちはボールで遊んでいたのですが、あるとき私のところにボールが飛んできたので投げ返すと、子どもたちは私と一緒にボールで遊び始めました。 私がボールを手にして、彼らが手にして、と言う感じです。しばらくして、両親が私のテーブルに来て、子供たちと遊んだことに感謝してくれて、もう家に帰らないといけないからと言いました。彼らは翌朝、家に帰ることになっていたのです。 お別れのときに彼が「あなたは何をしているの?」 と聞いたので、「ボーデ博士のところにいて、体育の先生をしている」と答えました。彼はポケットから小さなカードを取り出し、こう言いました。「もしライプツィヒに来ることがあったら僕を探してください!」 と行って去って行きました。私は受け取った彼の名刺を見ると、そこにはライプツィヒ大学体育研究所の所長・ハーマン・アルトロックと書いていました。それで私はライプツィヒに行くことにしたんです(笑)。彼を訪ねると、彼はこう言いました。「もちろんだよ。大学で働いてくれていいよ、大歓迎だよ 」と言ってくれました。それが一つのきっかけでした。
 
ライプツィヒでは何もかもが忙しかったのです。生徒はいるのに教える場所がないというのがとても大変なことでした。そこで、研究所の所長であるアルトロック教授が、大学の体育館を貸してくれたのです。しかし、その体育館ホールは真冬はとても寒かったのです。その体育館には足が2本しかないグランドピアノがあって、鍵盤の部分は床にもたれていました。私が生徒にピアノを弾こうと思ったら、ピアノを持ち上げて、鍵盤を膝の上に置いて(笑)弾かなければなりませんでした。ある日、とても寒かった日だったので、鍵盤の上で指が凍りそうになりました。セッションが終わった後、私はあまりの絶望感に涙を流しながら、一緒に仕事をしている人たちに尋ねました。「私が働けるスタジオを見つけるのを手伝ってもらえませんか?」と。その時、クラスで一度も見たことがない女性が「クラスの後、一緒に来ない?」と言いました。 
 
それで私たちは服を着て外に出たら、そこには素敵なロールスロイスが止まっていました。私たちは中に入るように言われ、ある場所に向かったのですが、そこは大学のちょうど反対側でした。大学はその建物の窓がある方にありました。そして、そこには大きな大きな、ヨーロッパで最大の室内広場がありました。ライプツィヒのアウグストスプラッツです。本当に大きな場所でした。片方には劇場、もう片方には画廊、そしてそこに大学がありました。そこの家一体を所有していたのは、リノリウムを製造しているある男性でした。そして、車はこのリノリウムの展示場前で止まりました。私たちは外に出て、彼女が一緒に来てと言って、リノリウムの展示室に入って行きました。展示室に入るとそこには背の高いとても重厚な男性がいました。 彼女は彼のところに行き、少し話をしていました。そして彼が私のところに来て、私を見下ろしながらこう言ったのです。「この小さな女性は先生なのかい?」と。私は重々しくうなずきました。彼は「そうか」と言って、「それなら助けてあげないとね」と言った。そして、彼は、このブロック全体にあるアパートをすべて所有している男性に尋ねました。 彼はその男に、このブロックの地図を持ってくるように頼み、二人で地図を見て「いや、これはだめだ。ああ、これはいいかもしれないが、2つの壁を壊さなければ。彼女が教えるのに十分なスペースを確保するためには、2つの壁を壊さなければいけないよ。」彼はとても熱心に私のことを考えてくれて… 「いや、これもだめだ。」 そう言いながら彼らは、このブロックにある何百ものアパートを見て回りました。そして、彼は、「あ、ここはどうだろう!?この会社とは40年来の付き合いがあるし、階段の反対側に同じようなオフィスがあって、今の場所よりもっと良い状態だから、場所を変えてもいいと言うんじゃないかな。その人に会いに行ってみよう」と言いました。それから、コメルツィエンラート・ケッフェルという名の彼とケッテリッチ博士とこの女性と私の4人で、その場所を見に行きました。そこが私にどう見えたか、言葉では伝え切れません。40年もの間、何も起こらなかったような所でした。壁からはチョークが落ちていて、椅子が置いていた場所には深い溝があり、椅子の足のあった所は大きな丸い凹みがありましたが、何もされていませんでした。この会社のオーナーであるこの男性は、ずっとお辞儀をしながらこう言いました。「ああ、なんて光栄なことでしょう!コメルツィエンラート様、どのようなご用件でしょう?何かお役に立てることはありますか?」 そこで、私の助っ人であるコメルツィエンラート・ケッフェルが、「このビルの反対側にも同じようなオフィスがあってね、そこはあなたにぴったりの素晴らしくて新しいオフィスなんですよ。そこはいかがですか?そちらに移動してもらえませんか?」と言いました。すると男性は「引っ越し代を払ってくれるなら、いいですよ。」と言ったので、私たちは引っ越し代を払いました。彼が出ていくとすぐに変化が起きました。まず壁が2枚取り払われて、今いるこの部屋よりもはるかに大きくて、片側に6つの窓がある空間ができました。男性用と女性用の更衣室、さらに生徒たちがクラスの前後にシャワーを浴びられるようにシャワーも2つ作ってくれました。まさに天国のような場所でした。すべては偶然の賜物だったのです。このような幸運は、私の人生の中でたくさんありました。これだけ知ればもう十分でしょう。そう、エルサ・ギンドラーとのワークは、本当に天啓でした。彼女が教えてくれたこと、一緒にワークをしてくれたこと、そばにいてくれたことを生涯にわたって感謝したいと思っています。本当に。
 
生徒2:あなたがいつかおっしゃっていた気がしますが、質問させてください。ヨリが聞いた質問に関連しているかもしれませんが、ボーデワークであなたが生徒たちと学んだ事について教えてください。

セルバー:ボーデワークで?

生徒2:はい。ボーデワークでは、音楽によって、人間の活力やエネルギー、精神が実際に向上していたと思いますか?普段生活している中で見るような動きと、同じような習慣的な動きや姿勢ですね。実際にあなたは、とてもよく似ているのでは、とおっしゃっていました。ギンドラーに言わせれば、これはボーデクラスだけの話ではなく、あなたの人生の疑問だったでしょうね。

セルバー:そうですね。当時生徒たちが何かをした後に、延々と昔話をしていたように思います。そして私たちがある事をしたことによって、私たちの心は凄く揺さぶられました。次第に、多少の困難も厭わないようになりました。我慢を強いられたり、自分たちの生活習慣を変えざるをえなくなりました。それは、、、とても生産的な(?)時代でしたね。そのうえ、当時私たちはお金がなくて、全ての物をシェアしていました。その後のヒトラーの時代でも、相変わらず物をシェアし続け、全てを秘密にしていなければなりませんでした。ヒトラーの時代では、エルサ・ギンドラーから、人の名前を口にしたり他人とおしゃべりをすることを禁止され、ワークに専念することだけを教えられました。したがって、この人とこの人が繋がっているということは誰にも分かりませんでした。もしクラスにスパイがいたとしても、誰と誰が繋がっているという関係性は突き止められなかったでしょう。これまで私はヒトラーの時代について話してきませんでしたが、本当に困難で大変な時代だったのです。ギンドラーは非常に寛容で、みんなを受け入れてくれるような人でしたが、生徒には互いの関係性について一切口にしないように念を押していました。ただクラスに来て、学んで、帰る。そうすればもしグループの中にスパイがいたとしても、実際に何が起こっているかは見破られませんから。

生徒3:明確な答えがあるかどうか分かりませんが、お聞きしてもいいでしょうか。

セルバー:どうぞ。

生徒3:このワークでは、人が人間らしくなっていくことや私たちがどういう存在であるかを少しずつ学んでいます。私が知りたいのは、人は人間らしくなる時点があり、どうすれば人間らしくなっていくかをもはや探求していかなくてもいいか、ということです。

セルバー:そうですね、、、これまでグループの中でたくさん学んできましたね。例えば、あなたが横になる時にあなたの頭を誰かに手で支えてもらうとします。またはその逆の動きをしてみるとしましょう(?)。簡単な動きですね。自分の手の中にあるその人の頭を見てみると、様々なものを感じるでしょう。その人の気分や呼吸の仕方、寝そべっている様子から、その人と自分の関係性を感じ取ることができるでしょう。つまり、自分自身だけでなく他人にも目を向け繊細に感じ取ってみることが大事なのです。このような説明で分かりますか?

生徒3:はい、分かります。もっと深い質問をしてもいいでしょうか。

セルバー:もちろん。

生徒3:さらに深く知りたいのは、私たちはこの世に自然に生まれてきたかということです、、、。
セルバー:なるほど、自然に。私たちのほとんどは、これまでの人生で傷ついたままこのワークに携わっています。生活の中で何度もイライラしたり、自分自身に自信がもてなかったり、単に習慣的に過ごしてしまったり、全く配慮が足りなかったり、喧嘩腰になったりしますね。しかし、このワークを始めると全く違う状況の中に入っていきます。このワークをしていると、一人一人がみんな心を奪われていくのです。みんな自分自身の存在についてより強く感じるようになり、他人との関係性や他人への態度がどのようなものであるかを自覚し始めます。さらに、今いる世界で自分たちがどのように生きるかを考えるようになります。たとえその世界が工場や森、どこであろうと、ですね。つまり、私たちは本当に様々なものに影響されており、この浄化そして明瞭化、また静寂化あるいは覚醒化プロセスを通して、色々なことが起こり得ます。このプロセスを通して、私たちは徐々により自分らしい自分となっていくのです。色々なものに左右されるのではなく。このような感情を経験したことがあるかもしれませんね。例えば、あなたの中で何かがより大事なものになった時や、あなたの中の何かが変化したりあるいは変化せざるを得なくなったりした時です。最初は変化することを認めたくないかもしれませんが、次第に変化の必要性を感じるようになったり、変化することに対して抵抗しなくなったりします。それこそが徐々に人間らしくなっていくプロセスです。私が普段ちょっと疑問に感じるのは、みんなは「からだ」と呼ばれる表面的なものとだけの関わりを感じているのではなく、自分を感じているだろうかということです。なぜなら、私たちが「からだ」から発信しているものは、彼や彼女自身の存在そのものを表しているからなのです。はい、、、。

オリオン:ありがとうございます。

セルバー:どういたしまして。

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