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伊東博先生 語録

伊東博先生『身心一如のニュー・カウンセリング』語録

伊東博著『身心一如のニュー・カウンセリング』(1999、誠信書房)より抜粋

 

1.ニュー・カウンセリングとは何か

・ニュー・カウンセリングは、例えて言えば、病気になってからお医者さんに行くのではなく、病気にならないような健康な身心をつくろうとするものである。強いて言えば、予防医学であり、具体的には、健康という言葉が最も似合うように思う。

 

2.ニュー・カウンセリングの原点  ―西洋から東洋への回帰―

・ニュー・カウンセリングの出発点である「センサリー・アウェアネス」は、“坐る・立つ・ねる・歩く”ことを中心にして、文明生活のなかで人間の失ってきた自然を回復することが、その中心テーマであり、「センサリー・アウェアネス」の原点に返ってみれば、それが、東洋で、2500年も前に生まれた、老子や荘子の自然観とまったく一致していることに、私は驚いてしまった。…環境の自然と人間の自然の崩壊を導いてきた西洋文明の危険な方向に早く気づいて、これからは東洋で大事にしてきた自然にかえることが、緊急に必要になっているのではないだろうか。「センサリー・アウェアネス」のはらんでいる哲学に接しているうちに、私には、こうした西洋から東洋への回帰という方向がだんだんと明らかになってきた。

 

・ニュー・カウンセリングは、シャーロット・セルヴァーの「センサリー・アウェアネス」を受け継いでいる。

 

3.心身二元論の西洋哲学からの脱却  ―人間の全体的理解―

・いまの日本人のほとんどの世代が、西洋思想のパラダイムのなかに強く、深く閉じ込められているように思われる。いま、そうしたパラダイムを抜け出さないと、現代心理学は、生きている人間を正当に理解することができないと思うのである。心身分裂の哲学は、ギリシャ依頼の西洋哲学の観点である。わが国でも、とくに明治以降、こうした西洋の哲学あるいは人間観が急速に輸入されて、ほぼ百年のあいだに、私たち日本人はすっかり西洋哲学と同じように人間をみるようになってしまったように思うのである。

 

・“全体的人間”がすぐれた教育の目標として礼賛されているということは、実際には人間を全体としてみるという実践がごく稀であったからにほかならない。そうしてみれば、心身二元論を強要した西洋哲学は、現実的には科学の発展などをとおして人類に利便をもたらした面はあるとしても、反面においては、人間の正当な(全体的)理解を不可能にしたという点で、人類を不幸に陥れた元凶であると言わざるを得ない。

 

4.「身心一如」の人間観

・西洋思想におけるような「身体の軽蔑」「精神の優位」という歴史をもたなかった東洋においては、「身心一如」ということは、きわめて自然なことであったと思う。その意味では、東洋の人々は、西洋哲学の洗礼を受けるまでは、きわめて自然な人間観をもち、それ故に、より人間的であることができたのであろうと思う。…いま現代の日本においては、哲学においても心理学においても、東洋の発想は失われて、西洋風の心身二元論が主流を占めてきたので、事情はアメリカと同じであって、「身心一如」の発想はなかなか理解されにくいところである。

 

・道元の「身と心とをわくことなし」(『正法眼蔵』辨道話)という断言的な言い方は、時間と空間を超えて、私たちに迫ってくるような感じがするのである。

 

・私は、ニュー・カウンセリングの実習のなかで、“身心は一如”(身心はいつでも一緒に、同時に機能していること)なのだということを、いろいろな場面に体験することが多くなった。

 

5.ニュー・カウンセリングの観点 ―身心の構造や機能に適合した動き方―

・ニュー・カウンセリングでは、動くからだ、生きて動いているからだ、からだの動きが重要な焦点なのである。

 

・哲学は人間の学であるならば、からだを無視すること、空間的存在としての(動く)人間を無視することは哲学の怠慢と言うべきであろう。

 

・人間にはその身心の構造や機能に適合した動き方がある。その動き方から外れると故障や障害が起こるのである。

 

・動きの基本である「坐る・立つ・ねる・歩く」の動き方に注目した健康法はほとんどない。…「動き方」というと語弊があるかもしれない。動かす技術、動かし方なのではない。…「おのずからそうであるところ(自然)に従って手を加えない」という意味である。

 

・オーストラリアのマシアス・アレクサンダーは、その人間の自然に伸びる方向(おのずからそうであるところ)、人間のほんらいの伸びていく四つの方向を、みずからの経験と探究によって、ほとんど「発見」したのだと言ってもよい。

 

 

6.ニュー・カウンセリングがめざす「アウェアネス」とはどのようなものか

・「アウェアネス」は、あらゆる心理療法、あらゆるカウンセリングの核心的なプロセスである。本人の身心の状態に変化が起こることを「アウェアネス」と呼んでもよいだろう。…もっと身体的・感覚的であるところを、私は「アウェアネス」と呼びたい。もっと身体的・感覚的なアウェアネスが起こることが、ニュー・カウンセリングの究極の目標である。ゲシュタルト療法のフレデリック・パールズが述べているように、アウェアネスそれ自体が、それだけで、そのままで、治癒的であり得るのである。…この「アウェアネス」を問題にしないで、行動の変化をもたらそうとするときには、そこに人間が人間を操作することが起こり、それは人間の尊厳を脅かす恐れをもってくるであろう。

 

・「アウェアネス」には、「見えてくる」「聞こえてくる」という「受け身」の性質がある。『荘子』に云う“気なるもの”は自分を虚しくして待っているものだという。道元禅師は、自分の方から萬法を明らかにしようとするのは迷いであり、萬法のほうからやってきて、自分が明らかになるのが悟りであると謂う。「アウェアネス」も同じように「受け身」のものである。

 

・“悟り”あるいは「アウェアネス」が起こっているのに、本人が覚知していない場合があることは、私たちが承知していてもよいであろう。

 

・「アウェアネス」が高度に深まるときには、それは分析したり、分割したりすることができない状態になる。「アウェアネス」というものは、分析しても、分割してもよくわからないものであって、全体的、統合的にみるより他に理解しようがないものだ、と言った方がよいであろう。

 

・私は、文化や社会に対する「アウェアネス」の“広がり”をみたいと思っている。

 

・「アウェアネス」には、もともと“用心する”“注意する”“気をつける”などという意味が含まれていた。社会だとか、文化だとか、そうした環境およびそのなかに起こる出来事に対しても、それに受け身的に束縛されたり感動したりするだけでなく、積極的にこちらからそれに向かっていったり、警戒したり、用心したりする、そんな意味を「アウェアネス」は持っている。

 

・ニュー・カウンセリングは、究極的には、「アウェアネス」を目指しているのだが、その「アウェアネス」は、単に個人内部の、個人的な成長に限定されるものではない。生きている人間が、普通にたえず接触している環境、文化、社会にも目を配っており、あやしげなものには「用心して」おり、美醜に対して敏感であり、文化と教養にひらかれている、そんな「アウェアネス」を、私は、想定している。感性や美意識は、「アウェアネス」の重要な表現なのである。

 

7.「与えること・受け取ること」 ―美の意識、感性、共通感覚(コモンセンス)―

・多くの問題を抱えている学校、そして崩壊の危機が叫ばれる日本の社会に、また感性を失った日本人に、美の教育がこれほど強く要求されている時代は、かつてなかったであろうと思うのである。その美の教育は、「受け取ること」「鑑賞」から始まるであろう。

 

・生きている人間は、他の人びとと人間関係をもつばかりではなく、社会の中で、ある文化の中で生きているのであり、そうした社会の、たとえば規則、習慣、あるいは芸術・文化などは、私たちを抑圧するばかりではなく、そこから、美とか、愛とか、共通感覚などの価値的なものを受け取り、そしてまた、そうした価値の創造に貢献しよう(与える)としているのである。ここでも、私たちは、社会や文化との間に、「与える・受け取る」という相互方向的なかかわりをもっているのである。そうしたかかわりによって、人間は、美の意識、感性、共通感覚(コモンセンス)を身につけていくのだと思う。

 

・とくにわが国では、近年、怪しげな宗教が出てきたり、残虐な犯罪が頻発したり、詐欺に近いセールスや、ほんものの大がかりな詐欺犯罪が氾濫していて、善良な人びとが、それにいとも簡単にひっかかっているのを見ると、美の意識、感性、共通感覚が現代の日本人に欠けていることを痛感せざるを得ない。おそらく、日本人の自己喪失の状況が深く浸透してしまったのであろう。それを生み出したのは、科学万能主義(技術の偏重)と、経済発展至上主義(金儲け主義)であるだろう。美の意識、感性、共通感覚の目覚めるような社会体制・教育体制が今ほど望まれる時代はないであろう。一方において、人間関係を恐れて自分のなかに引きこもってしまう人があり、経済の異常な発展に伴って、自分のことしか考えない利己主義者、甘やかされて責任を負えなくなった自由主義者が、今、日本には氾濫している。日本人と日本の社会が危険な症状を呈していることに、多くの人は疑いをもたないであろう。何か大事なことが大きく抜け落ちているに違いない。その大きく欠けているものの根源が、感性であり、美の意識であり、コモンセンスなのだろう、と私は思っている。あやしげなものに対して用心しているばかりではなく、美醜をかぎ分け、適不適を見分けるような知識、見識、感覚が人びとに必要なのであり、そのほかに「見聞の広い、物知りの」人間、それはきっと教養と文化を身につけた人であると思うが、そんな人間がこれからの世の中に生きてほしい人間なのではないだろうか。

 

 

 

8.ニュー・カウンセリング方法論の哲学

・いま,「日本は没落する」と警告する人が増えた。毎日のニュースをみていると,日本の経済ばかりではなく,社会も制度も,教育も,まことに危機に瀕しているように思われる。そして,それは,とくに明治維新以降,あわてて,無茶苦茶に吸収した西洋文明の行き詰まりをあらわしているのではないだろうか。そして人びとがそのことに気づき始めているように思うのである。環境の自然と人間の自然の崩壊を導いてきた西洋文明の危険な方向に早く気づいて,これからは東洋で大事にしてきた自然にかえることが,緊急に必要になっているのではないだろうか。ニュー・カウンセリングの実習は,そうした意味で,環境と人間における自然を取り戻すための具体的な手だてであると思っている。

 

・人間性の否定は,今日,いたるところに存在している事実なのだが,世界の多くの社会においては,そうした現象が政治的な混乱のもとに公然と正当化されていたりするのである。文化の程度が高いと見られている社会においても,人間性の否定ないしは軽視は,隠然として,つまり多くの人の目にはそれと映らないまま,厳然と存在しているのである。それは,科学・技術の発展,経済力の膨張などの必然の帰結として生ずることもあり,社会が経済の発展のみを重視したり,教育や文化が科学・技術を偏重したりするときに,そのひずみというかたちで起こるものである。今日の我が国の状況などはその典型的な例であると思う。このようなときに人間性の回復が叫ばれ,人間性回復の運動が起こったりするのであるが,そうしたヒューマニズムの歴史のなかでも,直接的に人間性を回復するための有力な方法論が開発されたことがなかったように思うのである。ニュー・カウンセリングは,こうした人間性回復の方法論として,あるいはもっと人間性の回復と直接につながる予防医学の出発点を形成するものと位置づけたいと思っている。

 

「アウェアネスの過程」を妨害しないように ―自然のままに動くことを大事にする―

・ニュー・カウンセリングでは、(からだを含んで)他人を操作しないように、つまり他人に対して目的遂行の行為をしないように、かなり神経質に用心している。それは、「アウェアネス」の過程が起こるのを妨害するからである。その「アウェアネス」は、身心一如のところにあるものである。操作は技術を生み出し、その技術によって他者および自己の自主性・主体性を傷つけるので、人間としての独立・成長にとって有害なものになるであろう。「アウェアネス」は「自発」する(おのずから発する)ものである。ニュー・カウンセリングでは、自然のままに動くこと、できるだけ自然のままでいることを大事にしている。

 

実習に於けるインストラクション(提案) ―共にやってみませんか―

・ニュー・カウンセリングに於いて、世話人のインストラクションは、「具体的な動き(実験)を一緒にやってみませんか。そうするとどんな感じがしますか。」という、プレゼンテーションであり、誘いであり、呼びかけであり、提案なのである。理屈から言えば、世話人の提案は拒否されてもかまわないのである。世話人のインストラクションが、知らず知らずのうちに、指示・操作を表わしていることもある。…私たちの心のなかには、他人を操作したい(自分の思い通りにしたい)という悪魔が住んでいるのかもしれない。…だから、世話人はいつも、自分の心中で、そしてその言葉・態度・行為をみずからフィードバックしてみなければならない。

 

からだの基本的な動き(行住坐臥、立居振舞)を調えること

・ニュー・カウンセリングもまた、センサリー・アウェアネスや、日本の仏教の修業のように、坐る・立つ・ねる・歩くの「行住坐臥」を中心にした“人間の基本”を、経験を通して学んでいく実習なのだと思っている。わが国では、仏道の修業ばかりではなく、礼法や茶道でも、あるいは武道(剣術)でも、日常の立居振舞を調えることがその基本と考えられ、さらには、「坐る・立つ・ねる・歩く」のなかに優雅さや美を求めるようになっていくのである。それはまた、「アウェアネス」にも通じるものなのである。

 

からだが伸びていく「四つの基本的な方向」を意識すること

・からだが伸びていく基本的な方向に気をつけることによって、からだの「誤用」による病気や障害を防ぐことができる。からだの四つの基本方向は、私たちの日常、どんなときでも、坐っているときでも、歩いているときでも、仕事をしているときでも、あるいは車を運転しているときでも、いつでも意識することができるので、心がけ次第で大きな効果をあげることができる。「伸ばす」のではなく、「伸びる」のだということも、初めのうちはなかなかわかりにくいかもしれない。その究極の目標は「アウェアネス」であり、その哲学と観点はニュー・カウンセリングの哲学とも合致しているので、ニュー・カウンセリングの実習のなかに広くこれを取り入れ、そしてまた、私自身はもう10年ほど心がけて毎日実践しているものである。

 

ムーヴメントおよび世界とのかかわり

・ニュー・カウンセリングでは、その人間関係を越えて、環境、文化、芸術、社会など、いわゆる「まわりの世界」に対するアウェアネスを、人間として生きることの不可欠の条件と考えているのである。…私はいま、実はカウンセラーの醸し出す雰囲気がこの教養と関係があるのではないか、という大胆な仮説を抱き始めている。クライエントをよく理解し、共感し、クライエントに信頼されるカウンセラーというのは、こうした教養から発する「ゆとり」のようなものを身につけているのではないだろうか、ということである。

 

・センサリー・アウェアネスの開祖、シャーロット・セルヴァーは、「86歳の誕生日を迎えて、あなたのアプローチは変わってきましたか?」という質問に、「それは方法・技術ではないから毎日変わるのだ。いつでも現実世界が提示してくる新しいことに常に対応しなければならない。」と述べ、たとえば、感覚の覚醒だとか言いながら、「自分の友人だとか、自分の興味・関心といった狭いところに閉じこもる傾向があるが、そうではなくて、今、世界のなかで起こっていることに対してひらかれていることを願っているのだ。」と述べている。

 

リズムとバランス

・リズム感は、私たちの「動き」、ニュー・カウンセリングで重んじている「ムーヴメント」にとって基本問題だからである。リズムは「動き」に欠かせない。いやリズムがなければ動くことができないし、それ故にでもあるが、私たちの健康にとってもリズムがきわめて重要なことであるからなのである。私たちのすべての動きがロボットとまったく違って、なめらかに動いているのは、リズムで動いているからだと直観することができる。きれいに動いているときには、そこにはリズムがあるのである。動く人もリズムカルに動いているのである。「坐る・立つ・ねる・歩く」というニュー・カウンセリングの基本的な実習は、まさに一般の日本人にこのリズムとバランスを取り戻したいという、まことに大それた、不遜な希望に発しているのである。それは単に、からだのリズムとか、からだのバランスだとかいうことではないのである。生き方全体の問題なのである。

 

・リズムは、空間を移動しない人間にも本来的にあるものである。心臓の鼓動や、呼吸などに、リズムの本源があるであろう。しかし、人間が「動く」ときには、はっきりとリズムが出てくる。そのリズムは、本源的な身心のリズムに発するものであろう。すべてのリズムが心臓の鼓動や呼吸のように、二拍子に還元することができる。というよりも、すべてのリズムが、二拍子に始まる、あるいは人間のリズムは二拍子であるからだろう。

 

・バランスもまた「動き」にとって欠かせないものである。…私たちは生涯、バランスの学習をし、そしてそれをチェックしなければならないようである。つまり私たちは、生涯、バランスの学習を続けなければならないのである。リズムもバランスも身心一如のところにあるのだが、リズムはひとつのバランスであり、バランスはひとつのリズムであるのだろう。だから、リズムが欠けるとバランスはなくなり、バランスが欠けるとリズムが損なわれるのだろう。

 

・ニュー・カウンセリングにおける実習は,「体験」そのものなのである。あえていえば,「人間を体験すること」なのであり,「かかわりを体験すること」そのものなのである。

 

「感ずる」ことから出発しよう

・自分のなかで現にいま起こっていることを,その起こるがままに許す(そのまま感ずることを許す)ことができれば,歪曲された観念やイメージ,あるいは「正しい真理」という呪縛が解けて,ありのままの自然のリズム,自然のプロセスが戻ってくる。それが人間回復の第一歩なのである。それは「感ずる」ことから出発するので,ニュー・カウンセリングではまず,この「感ずる」というところ(これまでの「考える」という習慣をやめて)を取り戻すことから始めなければならないのである。

 

「立つこと」から始めよう

・気がつかない間に日本人はすっかり変わってしまったような気がする。こんなにたくさんの問題が噴出してきて,やっとそれがわかった気がした。吾人が自由を得たのは,西洋から輸入した自由であった。自由を用いる準備ができていないところに自由を得たので,すっかり不自由になった。(漱石『猫』より)その状況は,ほぼ90年後の今日でもあまり変わっていないのではないか。つまり平成10年の吾人もまた,自由の意味がよくわかっていないのではないか。それに伴う責任の方を無視すれば,それはただの勝手ということになる。民主主義とともに,価値の多様性といわれた。みずからの無価値を覆い隠そうとすれば(無意識的なことが多い),それは単なる価値の破壊者となる。価値の多様性という美化された言葉で,他の価値を破壊しているのではないか。それは共通感覚(コモンセンス)や常識を打ち破るものである。そして,文化や芸術を破壊してしまうものである。ロロ・メイは,現代は「新ナルシシズム」の世代であることを嘆いている。「私はOKだ,あなたもOKだ」「自分と仲良くなる」という自己中心性をロロ・メイは「私が私であれば症候群」と指摘した。日本でも自分のなかにひきこもり,まわりが見えない人が激増している。……これらは,言い換えればそれは,日本人そのもののなかに巣くっている病巣ではないか。そして,これらの病巣のために,日本人は今,ちゃんと立てなくなっているのではないか,ということである。ちゃんと立っていないと,背骨が真っ直ぐにならない,つまり文字通り「バックボーン」がなくなってしまうのである。日本人は身心一如に,バックボーンを崩してしまったのだろうか。今の日本人は「立つこと」から始めなければならない状況にある,というのが私の仮説の結論である。

 

 

身心の機能

・身心の老化は,主として使わないでいることから起こるものである。数年間「朝の目覚め」を続けているうちに,からだが非常にやわらかくなっていくことに気がついた。身も心も使うことによって若返るのである。そして,そのことを,私は今,それこそが「自然」なのだ。「おのずから然るところ」にしたがうことなのだ,と思うようになった。「おのずからそうであるところ」を妨害したりせず,サビ付かせたりしなければ,「自然」の力が維持され発揮されるのだ,と思うようになった。西洋の思想は,自然に徹底的に手を加えて(操作して)自然を変えてしまうのが文明であり,文化であった。東洋の思想は,その自然をそのまま,手を加えないで,その力にまかせよう,という考え方である。西洋思想にもとづく現代文明は,人間の便宜のために自然を破壊してしまった(そのことを「人間中心」として非難する言い方もある)。当然のことながらその過程のなかで人間をも傷つけてきた。自然は回復することが困難な状況になっている。人間も回復することが困難になっているのかもしれない。そのことに気づいている人は極端に少ないからだ。ニュー・カウンセリングの根底には,こうした「自然にかえる」という考え方がある。あるいは,ニュー・カウンセリングの実習は,こうした自然(人間の自然,環境の自然)を妨げているもの,サビ付かせているものを排除して,「自然にかえる」ことを目指しているのだと思うようになった。人間には自己治癒力があると近頃いわれるが,治癒だとか,ヒーリングだとかいうよりも,むしろ自然の力なのである。悪い,病気のところがなおるのではなく,成長する自然の力なのである。

 

・私たちは,生まれてすぐに,たいへんな苦労をして学んだことを,ときどき,学び直さなければならないようである。車は,1年,半年ごとに点検・整備する人が多いけれども,自分の身心を,時々でも,少しでも整備している人は非常に少ないのである。老化を防ぐといった消極的なことではなく,身心の機能は毎日すこしだけの整備で,機能が維持されるばかりではなく,歳をとっても,機能が向上するものなのである。私は57歳からヨーガを習い始めたが,そのときから自分のからだがだんだんやわらかくなっていくのにびっくりした。そして,きっと知力の方でも,いつも頭を使っていれば,きっとその機能が向上するにちがいないと自信をもつことができたのである。

 

歩くこと

・歩くことは本来楽しいことである。坐っていて立ち上がると目線が変わって世界の見え方が変わってくるし,さらに歩いて移動すると世界も移動し,見えるものが変化するばかりではなく,見えるものの量も増えてくる。これは,人間の好奇心を満たすので(学習するのに)まことに必要欠くべからざることである。だからきっと,歩くということは,知的な発達にとっても大事なことであろう。また,歩くことによって足のウラの刺激が脳に伝えられて,脳の活動を活発にする。足と脳の途中の神経系統も働くし,血流も促進され,全身の筋肉も骨格,関節もみんな働くから,歩くということは,人間の身体的,精神的,社会的なすべての機能の活性化につながるのである。というよりも,人間の動くこと,生きることの基盤なのだと言った方がよいであろう。

 

バランスとリズムの学習

・坐る・立つ・ねる・歩くというニュー・カウンセリングの基本的な実習は,まさに一般の日本人に,このリズムとバランスを取り戻したいという,まことに大それた,不遜な希望に発しているのである。それは単に,からだのリズムとか,からだのバランスだとかいうことではないのである。生き方全体の問題なのである。

 

・私たちは,生涯,バランスの学習を続けなければならないのである。バランスは,普通考えられているような,からだの平衡状態であるだけではない。それもまた,「身心一如のところにある」ものである。リズムもバランスも,身心一如のところにあるのだが,リズムはひとつのバランスであり,バランスはひとつのリズムであるのだろう。

 

・「自然のリズム」がもどってくるのには,私たちは,長い,長い時間をかけなければならなくなっているのではないだろうか,と私は考えている。つまり,とくに私たちの国(社会)には,リズムに合わせてからだを動かす,などという機会が非常に少ないので,私たちのからだでいえば,関節や筋肉がコチコチに凝り固まっていて,サビ付いていて(こころの方も同じであることがすぐわかるのだが),「自然のリズム」がもどるのには,何年も何年もかかるだろうと推定しているのである。

 

自然にかえれ・東洋にかえれ

・鎖国―開国(明治維新)―第二次大戦の敗戦(西洋に追いつき追い越せ) 学校は西洋を教えるところだった。日本人の生活とかけ離れた校舎,机,椅子,科目(開国以来130年,戦後はアメリカ文明,それでも戦前の中学校には西洋史のほか東洋史もあり,漢文も正課だった。高等師範の英語科で使った『論語』のテキストは注釈まで漢文だった。「民主主義」「自由」「価値の多様性」などは日本では失敗したのではないか。漱石はそのことを予言しているかのようである。カウンセリングも西洋哲学に基づいたものであり,日本人に合わなかったのではないか。操作主義・技術主義だから。東洋は自然に手を加えない。ロジャーズなど,東洋的な考えを示したが,しゃべりすぎるし,東洋には入りきれなかった。自己主張トレーニングよりも消極的な「共感」の方が大事。カウンセリングでは最近,この方向がおろそかになっていないだろうか。

 

・西洋文明は,地球と人類を滅ぼそうとしている。漱石の一言、一言が予言めいて聞こえる。もうアルコール中毒から抜けられないのかもしれない。日本のカウンセリングは,こんなところにもどりたいと思う。あまりに大問題なので,だれもにわかに賛成してくれないと思う。しかし,ほんとうに言いたかったことは,こんなことでした。(夏目漱石は最晩年,午前中は『明暗』を書き,午後は自ら漢詩を作っていました。『猫』からずっと,東洋の人だったように思います。)(「ニュー・カウンセリングの哲学」の背後にある哲学より 1999)

 

 

9.坐る・立つ・ねる・歩く ―「ニュー・カウンセリング」の基本的な実習Ⅰ―

立つこと

・「立つ」ということは、社会に向かう、あるいは他の人間に向かうという以上に、もっと人間の自分自身の存在の基盤、つまり人間存在の基盤にかかわるものであると思う。「立つ」ということは、「立場」をもつということなのである。自分の拠って立つ基盤ができた、自分の生き方を確立した、ということである。

 実習では、「立ってくださいませんか。」というインストラクションをするが、強いていえば、「立つという状態になってくださいませんか。」ということである。その「立っている状態」とはどのようなものなのか、それがこの実習のテーマである。…「立つこと」は、やはり身心一如であると思うばかりである。きっと、私たちは、一生かかって「立つ」ことを学び続けなければならないのかもしれない。

 

・「立つこと」の実習では、「立つこと」を学ぶと同時に、「感ずる」ということの学習にも集中したいのである。自分のなかで現にいま起こっていることを、その起こるがままに許す(そのまま感ずることを許す)ことができれば、歪曲された観念やイメージ、あるいは「正しい真理」という呪縛が解けて、ありのままの自然のリズム、自然のプロセスが戻ってくる。それが人間回復の第一歩なのである。

 

・「くびは、らくに、自然にしておいてください。」それは、「自然にしていることを許す」という感じである。「あたまが上に伸びていくのを感じてください。(伸ばすのでない)」からだの保ち方が変わるとその気持ちも変わる、すなわち、ここでも「身心一如」という現実を思い知らされるのである。「背中が上下に伸び、左右に広がっていく」のを感ずるだけである。このようなからだの四つの方向に、同時に伸びていく感覚をもつことができる時には、全身心が、非常に伸び伸びと、広やかに、ゆったりした、そしてひらかれた感じになることができる。それはとても気持ちのよいものである。

 

・日本人は今、ちゃんと立てなくなっているのではないか。ちゃんと立っていないと、背骨が真っ直ぐにならない、つまり文字どおり「バックボーン」がなくなってしまうのである。日本人は、身心一如に、バックボーンを崩してしまったのだろうか。今の日本人は、「立つこと」から始めなければならない状況にある、というのが私の仮説の結論である。

坐ること

・日本の文化では、「坐る」ことそれ自体が、ひとつの重要な文化を形成するようになった。坐禅がそうであり、茶道や武士道でも、坐ることそれ自体が文化であり、芸術であった。そうした意味で日本人が「坐る」ことを学ぶことには文化的な意味も含まれている。

 

・「坐る」は、大地の上に安定して存在していることであり、地震が来ても、他人に押されても動じないかたちであるだろう。それは東洋のヨーガ、あるいは禅の坐り方でも、あるいはアレクサンダーの四つに伸びることでも、同じことであるだろう。それはまた、身心のよき機能を促すものであるだろう。坐るだけでも、大事な健康法になるであろう。

 

・静坐は瞑想のかたちである。静かな気持ちで、安定した姿勢で坐る静坐もまた、身心一如のところにある、と言えるだろう。瞑想や健康のために坐るのは、坐ることそれ自体が目的になるところが、日常生活の坐ると違うところである。

 

・私たちの日常の立居振舞も、美しく、無駄のない動きになることが、ムーヴメントの日本的な特色であるだろう。こうした動きは、古くから日本の文化のなかで作られてきたものであり、能や歌舞伎などにも伝えられていると思う。

 

歩くこと(ウォーキング)

・ニュー・カウンセリングでは、邯鄲の都人のような(中国の故事「邯鄲の歩み」の話にある)優雅な歩き方をそれぞれが見つけるようにしたいと思うのである。それはきっと、バランスがとれていて、リズムカルで、美しく、しかも健康的な歩き方でもあると思う。

 

・私たちは、生まれてすぐに、たいへんな苦労をして学んだことを、ときどき、学び直さなければならないようである。車は、1年、半年ごとに点検・整備する人が多いけれども、自分の身心を、時々でも、少しでも整備している人は非常に少ないのである。老化を防ぐ、といった消極的なことではなく、身心の機能は毎日少しだけの整備で、機能が維持されるばかりではなく、歳をとっても、機能が向上するものなのである。…歩くということは、私たちがその一生をかけて学んでいることなのかもしれない。

 

・早く歩かなければならないとか、たくさん歩かなければならないといったことにとらわれて、歩くのが苦行になってはならない。歩くということは、ほんらい楽しいことなのである。坐っていて、立ち上がると、目線が変わって、世界の見え方が変わってくるし、さらに歩いて、移動すると、世界も移動し、見えるものが変化するばかりではなく、見えるものの量がふえてくる。これは、人間の好奇心を満たすのに(学習するのに)、まことに必要欠くべからざることである。だからきっと、歩くということは、知的な発達にとっても大事なことであろう。また、歩くことによって、足のウラの刺激が脳に伝えられて、脳の活動を活発にする。足と脳の途中の神経系統も働くし、血流も促進され、全身の筋肉も、骨格、関節もみんな働くから、歩くということは、人間の身体的、精神的、社会的なすべての機能の活性化につながるのである。というよりも、人間の動くこと、生きることの基盤なのだ、と言ったほうがよいであろう。

 

・私は、「バランスのとれた歩き」を最も大事なことと考えている。たくさん歩くとか、速く歩くだけだと、身心全体のバランスのとれない、不自然な、不健康な歩き方が強化されてしまい、身心の他の部分にもマイナスの影響を与えてしまうのである。「あたまは上に伸び、背中は上下に伸びて、左右に広がる」―この二つの方向に気をつけるのは、バランスを大事に考えているからである。だからこの方向は、もちろん歩くときだけではなく、しゃがんだり、手を伸ばしたりするときでも、どんな動作においても、気をつけていた方がよいのである。そうすれば、腰を傷めたりすることもなくなるであろう。その「バランスのとれた歩き方」を少なくとも、1日20分はやってください、というのが私の提案なのである。そして、青少年に歩き方を教えてほしい。「坐る・立つ・ねる・歩く」という人間の動きの基本を、学校でもどこでもまったく教えていない。大人になってからでは、小さいときのクセがなかなかとれにくい。歩き方でもそうである。

 

ねること(レスティング)―および腹式呼吸

・私たちは、日常生活において、忙しい、忙しいと言いながら、自分の身心をほとんどでたらめに使っているので、毎日どこかで、身心の破壊を防ぐ方法を講じなければならない。できれば、静かなところで、たとえ短時間でもよいから、バランスのとれた身心の状態を回復する、ということなのである。

 

・私たちは、朝起きてから、顔を洗ったり、ご飯を食べたり、本を読んだり、坐ったり立ったり、歩いたりするときにも、うっかりすると(いやほとんどの場合)からだを無理に、あるいは非常にアンバランスに使っている。学校でさえも、子どもたちが机の上に突っ伏して字を書いたりしても(目が机に近すぎたり、女の子など髪の毛が机の上まで垂れているのを見ることがある)、先生は何も言わない。いわゆる「姿勢が悪い」ということなのだが、そうした習慣が私たちの身心のありのままの働き(ほんらい備わった機能)を非常に傷つけているのである。……「姿勢」一つとってみても、その姿勢のために、身心の機能が低下したり、向上したりすることがわかるであろう。そうしたことを、私たちはあまり気にしないで生きている。それでも一見健康そうに、何とか生きているので、あまり気にしなくなるのだが、老化が進んできたり、いったん何かが起こったりすると、平常からの不注意を後悔することになるのである。

 

・「姿勢」には、精神の状態がそのまま表われていることが多い。…姿勢や呼吸は、「精神と身体の同時機能」(身心一如)ということがわかりやすい活動である。……「歩く」という動作でも、決して足だけで歩いているのではない。全身心がそこに関与しているのである。歩くときだけではない。私たちのどんな小さな動きでも、かならず全身心がそこにかかわっているのである。たとえば、ちょっと手を上げてみてもわかると思うが、そのとき腰やヒザから足の指先までも働いていることがわかるであろう。そして、気分もちょっと変わることがわかると思う。人間はいつでも、全身心で動いていることがわかると思う。

 

・ニュー・カウンセリングでは、身心の不自然な働き方に気づき、自然な機能をできるだけ早く回復することができるように配慮している。可能性の現実化、自己実現はここから始まると思う。そのために、この「バランスのとれた休息の状態」(レスティング)に、1日に20分だけでもよいから戻ってみようというのが、この実習の趣旨なのである。あくまでも身心が同時に機能している(身心一如)、ということを忘れてはならない。この「レスティング」の実習はまた、「腹式呼吸」と「瞑想」を含むものである。というよりも、「腹式呼吸」をして、その呼吸に精神を集中するのが「瞑想」なのである。

 

・私は、57歳のとき、医師に、肺気腫だから、これ以上肺の機能を低下させてはならない、と言われた。だんだん歳をとってくると、機能は低下してくるのが普通だから、せめて現状維持ができれば上等だ、というわけである。そのころ私は、ヨーガを習い始めており、50代でも、毎日動かしていれば、からだがだんだん柔らかくなることに気がついていた。関節や筋肉が、使っているともっと動くようになるのであろう。人間のからだは、使っていると、老化をかなり遅らせることができるばかりか、むしろ若返ることができることを経験していたのである。そして、それはからだだけのことではなくて、精神的な機能についても同じであろうと確信した。ここで、老化と言ったり、若返ると言ったりしていることも、身心一如にそうなるのである。

 

・ボリセンコの瞑想の考え方ややり方は、ニュー・カウンセリングに大きな影響を与えている。その要点は、瞑想は免疫性を促進するということである。つまり、病気にかかりにくい身心の状態を作るということである。瞑想というのは、今やっていることに集中することであるが、ボリセンコの瞑想は、ゆったりとした呼吸に集中するというものである。

 

朝の目覚め ―怠け者の60分健康法

・「朝の目覚め」(Morning Awake)は、毎日、朝起きてすぐ20分、全身心を目覚めさせるというものである。私が57歳の時から現在(80歳)に至るまで20年以上続けている健康法の一部であるが、身心機能の向上、あるいは老化防止に役立つことを、身を以て経験・実証しているものである。まず、身心をよく目覚めさせてから、その日の活動を始める方がよい。眠っていた身心を目覚めさせて、これからの活動に備えるばかりではない。一日中ほとんど充分に使うことのない筋肉・関節・神経などがあるが、そうした部分を、朝のうちに動かしておこうというものである。また長期的にみれば、使わずにおくとサビついてしまう筋肉、関節、神経、そして脳などをよく動かしておけば、老化を予防することもできるであろう。…「朝の目覚め」は、健康のためばかりではなく、事故防止のためにもなり、安定した生活態度や生き方を維持するのに役立つであろう。

 

・私自身も、歳をとるにつれて、からだは固くなっていくものとばかり思っていた。多くの人もおそらくそのように思い込んでいると思う。現実には、歳をとっても、からだは、毎日動かしていれば、やわらかくなるということがわかった。それに気づいた私は、いや、これは精神面についても、つまり知的な活動においても、同じことがあるのではないか、と思うようになった。その後の私は、高齢化にかかわらず、よく働いていると思う。本や論文も、人もびっくりするほどたくさん書いたし、国内や外国のワークショップにも飛び歩いたし、75歳まで大学の教師として現役で働いたのである。「朝の目覚め」の効果については、機器などを使って測定することもできると思うが、私は何よりも、私の経験を主にして、いろいろと工夫を加えてきた。そのことは、ニュー・カウンセリング全般についても言えることである。

 

・「朝の目覚め」に於ける立居振舞のすべてに於いて、反動はつけない。すべて自分の力で立ったり、坐ったりするのである。「自分で自分の身を処する」ということは、ニュー・カウンセリングの基本原理の一つである。……上半身と両手を重力にまかせていく。ただ、その途中で何が起こるか、ということ。「まかせる(許す)allowing」というときは、その人が全体として反応しているときである。次に、上体の起き上がる力にまかせながら、ゆっくりと起き上がっていく。それは、人間に本来そなわっている生命力にゆだねる、ということである。……「全体として機能する人間が、上体のぶら下がりから立つ状態になるその途中に充分に注意をはらうときには、それは全体として現存在しており、そのさまは、どんなにペニスや乳頭、あるいは植物の勃起が立派であっても、それにたとえることはできません。こうしてみると、立つということは、人間存在の完璧にして自然な表現となり得るものだと思います。」(チャールズ・ブルックス『センサリー・アウェアネス』より抜粋)

 

センサリー・アウェアネス

・「センサリー・アウェアネス」は、ニュー・カウンセリングの出発点であり、ニュー・カウンセリングの中核をなす実習である。ニュー・カウンセリングの究極の目標は「アウェアネス」なのであるが、それはすべて、センサリー・アウェアネスから、つまり「感覚の覚醒」から出発するのである。いわば、感覚器官を通して「感ずる」という基本的な体験から始まるものなのである。…ニュー・カウンセリングは、人間性回復の方法論として、あるいは予防医学の出発点を形成するものとして位置づけたいと思っている。そして、「センサリー・アウェアネス」の実習は、そのスタートの地点にあるのである。

 

ムーヴメントと理解・鑑賞

・「ムーヴメント」は、正確にいえば、「リズムカル・ムーヴメント」である。もともと、人間はリズムカルに動くものだ、という経験則に基礎をおくものである。知らず知らずのうちに私たちは、あるリズムに従って(のって)動いている、というのがその経験則である。そのリズムを失ったときに、たとえば、ころんだり、つまずいたり、もっているものを落としたりするのではないかと思うのである。お皿を洗ったり、お掃除をしているときに、鼻唄がでるようなときには、リズムにのっており、けがをしたりすることはないように思う。…きっと人生そのものがリズムなのであり、カウンセリングにやってくるクライエントなども、生のリズムにのれないときに相談に来ているのかもしれない。だから、リズムというものを、私たちの生きるすべての面にあるものだと覚悟すれば、カウンセリングも変わってくるだろうし、もっと広く、私たちの生き方そのものが変わってくるに違いないと思うのである。

 

・「センサリー・アウェアネス」の開祖、シャーロット・セルヴァーは、「いま自分のなかに起こっているものと、一緒になるならば(そこから抜け出そうなどと思わずに)、歪曲されたものは解消し、自然のリズムが戻ってくる」(カッコ内および傍点は伊東)と述べている。……私は、「自然のリズム」が戻ってくるのには、私たちは、長い、長い時間をかけなければならなくなっているのではないだろうか、と考えている。だから、ニュー・カウンセリング・ワークショップなどで1時間ぐらい「ムーヴメント」の実習をやったからといって、何の足しにもならないであろう、と思いながら、私はやっているのである。…音楽のある社会、リズムがいっぱいある生活、それを取り戻さなければ、私たち自身が「自然なリズム」に戻ることは非常に困難なことだと思う。ニュー・カウンセリング・ワークショップの「ムーヴメント」が、自然のリズムを取り戻す方向に向かうきっかけになれば幸いである。……身心一如のところにあるリズムが、日本人に、そして日本の社会に溢れるようになる、というのが、ニュー・カウンセリングの「ムーヴメント」の願いなのだが、それは、気の遠くなる話ではあるのである。

 

・ゲーテは、ギリシャ・ローマの美を求めて、憧れのイタリアに出かけたが、美術を鑑賞する者自身が「生き生きとした純粋な人間らしいものになる」と述べている。鑑賞している人が「生き生きとした純粋な人間になる」ということが、鑑賞(受け取る・理解する・鑑賞する)という実習がニュー・カウンセリングに含められる最大の理由である。こうした美は、カウンセラー自身にとっても、同じ理由から必要な教養になるだろうと思う。カウンセラーや心理療法家が、クライエント(たち)と、セラピー的な関係をつくるときに、カウンセラーの人格的なものであって、説明しきれない、ある意味では「ムード」といったようなものを醸し出し、それがその治療関係に重要な(ときには決定的な)意味をもつのであるが、そのような人格的なものは、カウンセラーや心理療法家の教養・文化によるのではないだろうか、ということが私の最近抱いている仮説なのである。

 

・夏目漱石の小説『吾輩は猫である』のなかに、「日本の文明は、…根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものという一大仮定のもとに発達しているのだ。」という箇所がある。そして、漱石は、『猫』のなかで、「吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果不自由を感じて困っている。」と述べた、その自由は、ロロ・メイ(実存心理学者)が述べたように、「自由というものは、運命との闘争のなかで研ぎあげられるもの」であり、その「運命との闘争を欠いた自由」が20世紀転換期の今日に至るまで、依然として運命との闘争・対決を欠いたままで、言葉だけがひとり歩きし、今日の日本社会を混乱に陥れているのではないか。無責任な、観念論的な自由や平等がはびこって、価値が相対化され、世紀末の日本人は、右往左往して、何を信じていいのかわからなくなったのではないか。強いて言えば、とうとう日本人は、お金だけを信ずるようになった。そしてバブルがはじけたときに、お金も信じられなくなった。何も信ずるものがなくなった。換言すれば、アイデンティティを根こそぎ破壊された。そしてそこから、テレビを賑わせた世紀末のさまざまな問題が起こっていたのではないだろうか。

 

 

10.与えること・受け取ること ―「ニュー・カウンセリング」の基本的な実習Ⅱ―

・ニュー・カウンセリングでは、「かかわる」ということを、たとえば、二人の人間関係に於いて、二人が、相互的に、「与えること」と「受け取る」ことをやっているのだとする。そうすると、そこに参画している人にとっては、非常に具体的な、わかりやすいものになると思う。自分は「相手を受け取って」いるか、「自分を与えているか」ということならば、具体的にわかりやすいと思うのである。そしてまた、文化や環境との間でも、私たちは、自然の環境から「受け取っているか」(自然の声が聞こえているか)、自然に「自分を与えているか」という検討をすることができるのである。さらに、文化についても、たとえば、漱石の心を「受け取っているか」、詩仙堂のお庭の美を「受け取っているか」、そしてそれらに「自分をどのように与えているか」を検討するのである。「ともにある世界」でも「まわりの世界」でも、私たちは、「与えること」「受け取ること」を通じて、本当にそれらとかかわることができるのである。西洋文明は、与える技術を開発し、日本文化、東洋文化は、受け取ることを基盤にして栄えた。

 

自然とかかわる・美をさがす

・私たちは、自然環境とのかかわりをおろそかにしたばかりに、いや、自然は征服すべきものとしかみなかったばかりに、自然環境、地球環境をその回復も危ぶまれるほどに破壊してしまった。それが人類の問題であることが明らかになっている今日、カウンセリングや心理療法といえども、人間とのかかわりを越えて、自然とのかかわりをも扱わなければならなくなっている。自然とのかかわりというのは、人間と自然の間に「与える・受け取る」という動きがあるということである。

 

・ギリシャの哲学者ピタゴラスは、「私たちが聴く耳さえもっていれば、天の星は音楽を奏でているのです」と言っている。「自然とかかわる」という実習では、多くの人が、とても小さな草花や虫や他の小動物など、ふだんは見過ごしていたものの美しさを初めて発見したりする。そうした優しい心情は、日常生活のなかで、すっかり失っていたものだったのである。自然の小さなものに対するそうした思いが失われたところから、自然破壊が始まったと思われるのである。それだけに、自分のなかに潜んでいた、小さなものに対する心情に気づくことは、その人にとって自己の快復のきっかけになったりする。ときには、涙を流して感動することも起こったりするのである。

 

・美というものは、私たちの生きるすべての領域において、人間を動かしているのだから、そうしたまわりの世界のすべてに、アウェアネスは向けられるのである。……自然環境、文化環境(芸術、文学など)との間でも、私たちは、「与えること・受け取ること」という具体的なかかわりをしているのである。ニュー・カウンセリングは人間の生活の全局面にかかわるものであることを改めて強調しておきたい。

 

 

11.教育におけるニュー・カウンセリング

・ニュー・カウンセリングは、身心を二つに分けないで(分けていえばその両面について)、その身心の自然な機能を維持するように、いつもその自然なバランスに立ち返り、自然なエネルギーが流れ出てくるように注意するのだが、それは、当然の結果として、身心の老化を防ぐことになるのである。…身も心も、使うことによって若返るのである。そして、そのことを、私は今、それこそが「自然」なのだ。「おのずから然るところ」にしたがうことなのだ、と思うようになった。「おのずからそうであるところ」を妨害したりせず、サビ付かせたりしなければ、「自然」の力が維持され発揮されるのだ、と思うようになった。

 

・「萬物のおのずから然るところにしたがいて」は、『老子』第64章に出てくる言葉であるが、その後に「敢えて為さず」とつづく。萬物の自然にしたがって、あえて(外から)手を加えない(操作しない)、ということである。「したがいて」は「輔」という字だが、これはもともと「助ける」と読む字であるが、「たすける」よりも「したがいて」と読む方がよいと思っている。…西洋の思想は、自然に徹底的に手を加えて(操作して)自然を変えてしまうのが文明であり、文化であった。東洋の思想は、その自然をそのまま、手を加えないで、その力にまかせよう、という考え方である。西洋思想に基づく現代文明は、人間の便宜のために自然を破壊してしまった(そのことを「人間中心」として非難する言い方もある)。当然のことながらその過程のなかで人間をも傷つけてきた。自然は回復することが困難な状況になっている。人間も回復することが困難になっているのかもしれない。そのことに気づいている人が極端に少ないからだ。ニュー・カウンセリングの根底には、こうした「自然にかえる」という考え方がある。あるいは、ニュー・カウンセリングの実習は、こうした自然(人間の自然、環境の自然)を妨げているもの、サビつかせているものを排除して、「自然にかえる」ことを目指しているのだ、とこのごろ思うようになった。人間には自己治癒力があると近頃いわれるが、治癒だとか、ヒーリングだとかいうよりも、むしろ自然の力なのである。悪い、病気のところがなおるのではなく、成長する自然の力なのである。

 

・数え上げればきりがないほど、ニュー・カウンセリングは、学校のカリキュラム全体と密接にかかわっている。ニュー・カウンセリングは、教育それ自体だといってよいかもしれない。しかし、ニュー・カウンセリングでは、たとえば「表現と鑑賞」にしても、「体の基本的な動き」にしても、学校で要求しているところよりも、もっと基本にあるもの、そういうところに迫りたいと思っている。リズムにしても、いきなり、ダンスや表現でなくて、そのもっと基本・基底にあるもの、よくわからないが、たとえばそれはリズム感のようなものかもしれない。リズム感なしに、ダンスや表現を教えているように思われるからである。「体の基本的な動き」にしても、いきなり、走る、跳ぶではなくて、「坐る・立つ・ねる・歩く」から始めなければ、それは砂の上に楼閣を築くようなものになるのではないか、ということである。現在の教育が、「体の基本的な動き」だけではなく、すべてにわたって、基本のところをおろそかにしているので、失敗することが多いのではないか、と思っているのである。それはきっと、教育というものが、人間の本性とか、学習の過程などから出発したものではなく、むしろ人間の外部、すなわち、文化や社会からの要請にもとづいて、その要請を発達段階に割り当てたものにすぎないところから起こったものだからであろう。

 

・とくに、受験戦争がはげしくなってからは、学ぶべきことの重要な部分が学ばれなかった、ということが多すぎるように思われる。そうした意味では、学校教育のなかに今ニュー・カウンセリングを取り入れるということは、学校が本来やるべきことをやるだけだ、ということができるのである。学校が、本来の学校にもどるということに他ならない、ということであろう。

 

・一般に、音楽に親しむことは、文化の大事なひとつの局面であると考えているのである。孔子は、『論語』のなかでしばしば音楽にふれている。たとえば、「詩に興り、禮に立ち、楽に成る」という言葉がある。いわば孔子の理想とした文化人の姿なのだが、教養、教育あるいは文化が最終的に音楽に於いて完成するという考え方なのである。きっとこれは、文化国家の構想ではないだろうか。……ニュー・カウンセリングは、「自然にかえれ」というメッセージをもっているが、それとともに、同時に「東洋にかえれ」という発想をもっているのである。


以上

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