【総会時研修会 ご報告】
令和4年7月24日実施
今年も総会に引き続き、参加者11名にてオンラインでの研修会(勉強会を兼ねる)が行われました。その主な内容をご報告いたします。
(1) 実習「センサリー・アウェアネス」
(2) 伊東博先生の研究
(1)実習「センサリー・アウェアネス」
伊藤稔会長は、3年間に亘り毎週1回、センサリー・アウェアネス財団が開催するオンライン実習に参加され、その貴重な内容を勉強会の会員にその都度ご報告くださり、またその中の一つの実習を月1回の勉強会で実施してくださっています。
今回は、令和4年7月10日に体験された、ステファン先生(シャーロット・セルヴァーの晩年に13年間師事し、毎年祖国ドイツでセンサリー・アウェアネスの実習を弘め、現在、センサリー・アウェアネス財団代表理事)がされた実習をやってくださいました。今回、伊藤先生がやってくださった内容は実際にはステファン先生のものと同じものではありませんが、概要をお伝えするために、まず伊藤先生ご自身のご報告よりその内容をそのまま引用させていただきます。
今日7月10日午前1時からセンサリー・アウェアネスの世話人はステファン(Stefan Laeng)先生でした。最初午前0時45分ころZOOMに入るとステファンさんと2人でした。そこで、ステファンさんから、「安倍元総理大臣の暗殺に、弔意のことばを頂きました。(I’m very sorry Japanese farmer Prime Minister Abe was Assassinated.)」の言葉を受け取りました。日本の国内ニュースだけでなく、アメリカ社会や欧米にも大きく報道されたことに驚きました。ステファンさんは、3年前の2020年4月から、すでに10回以上SAWの土曜日フリー・ワークショップの世話人を担当してきました。現在は、センサリー・アウェアネス財団(SAF)の代表理事を務めて、特にステファンさんの祖国ドイツで、毎年ヨーロッパの方々にセンサリー・アウェアネスの実習を行ってきました。特にシャーロット先生の亡くなるまでの最晩年の13年間(1990-2003)は、彼女に付き添いセンサリー・アウェアネスを学び続けて、そのシャーロット先生のSAW体験をユーチューブにアップしています。ステファンさんの今日のSAWの紹介メールでは、次のように書かれていました。
In the beginning, some of our experiences in Sensory Awareness are quite new and surprising, as we experience our standing or the touch of our own hand in new ways. But if we come to seek only the novel, we could miss the power of Maturity. In Maturity, we may become aware of the endless pouring forth of Life itself – as us.
Maturity has little to do with how long we have practiced. It arrives as the ability to recognize what is deep, stable and continuously nourishing beneath the play of the novel and the familiar. Though our experiences fluctuate, what sustains them is always fresh and accessible in the full, simple attention we call Sensory Awareness. Hand to forehead, or footsole to floor, arm rising through air, finding its own path up, we are alive in a new way: the novel and the familiar and the now deeply known give us the hint that we are not just alive, but are Life itself.
(意訳:最初は、センサリー・アウェアネスで体験するいくつかの実習は、例えば、ただ、ただ、「立つこと」や「シンプル・コンタクト」のような、自分の手のひらで、「ただ、ただ、自分のからだや身の回りのものに触れてみること、感じてみること」だけですが、自分の体験として、これまで気づいたことが無い、新鮮な体験(経験)であるかもしれません、「ハッとするような」驚く体験かもしれません。しかし、頭で「言葉だけ(the novel)」を探すようになると、自分が生まれ持った(生きている)力に気づかないままになるかもしれません。(センサリー・アウェアネスの実習の中で)三昧(悟り)の境地になること(Maturity)と、私たちは、「生きるということ(Life itself)」、そのものが「気づきの連続であること」を体験することができるかもしれません。
「三昧の境地になるということ(成熟Maturity)」は、私たちがどれだけ長く練習(have practiced)してきたこととは、ほとんど関係がありません。「その三昧の境地になるということ」は、自分のすきな(夏目漱石の)小説やおなじみの(シェークスピアの)演劇(芸術)を通して、深く、安定して、継続的に、自分自身の身心に栄養を与えているものになることに気づくかもしれません。私たちの日々の体験は変化していますが、その日々の自分自身の体験を支えているものは、常に新鮮であり、私たちがセンサリー・アウェアネスと呼ぶところの「気づき」は、常に、単純に、日々、人間が生きていることの証です。例えば、自分の手のひらからあたまの額、または、自分の足のウラの踵から床、自分の腕が、自分の身の回りの空間の中をゆっくりとしずかに、上にあがっていくプロセスで、自分の腕が、自然に、自ら独自の道を見つけて、腕がゆっくりと上に持ち上がり、私たちは、常に新しい体験の中で生きていることに気づきます。その意味は、私たちが生きているということ、小説や親しい人間との出会いを通して、生きることの意味を考えるだけでなく、(センサリー・アウェアネスの実習は、)人間の「生きる」ということ、そのものなのです。)
URL:Pathways of Sensory Awareness
ステファンさんの今日の実習は、「いま、自分はここにいること、自分の存在そのものが、感じられるようになるまで、しばらく、静かな、穏やかな時間が訪れるまで、待ってみませんか?待つことができますか?(I guide today to be peace in your presence.)」という言葉かけから始まりました。
「いま、ここにいること、しずかに、おだやかな平和な時間が訪れるまで、ただ、ただ、じっとしていることができますか? 今いるところで、しずかな時間が訪れてきますか?(to be quiet for a while, still deep, full simple attention, sensation, quietly, clearly ?)」
(*15分ほど時間がありました)
「それでは、これから、自分の両手のひらで、自分のあたまの前側と後側に、しずかに近づけてみることができますか?近づけてみませんか?」「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?(sensation of your breath with in, with out )」
「両手のひらで、自分のあたまの前側と後側から触れる準備ができましたら、しずかに、そっと自分の手のひらで自分のあたまの前側と後側から、触れてみませんか?」「いま、自分の手のひらで自分のあたまに触れている感じは(new connection)いかがでしょうか?(listening to the news)」
「いま、もしも、目を開いている人は、自分の目を閉じることができますか?閉じてみませんか?(eyes close where in your quiet in peace)」「いま、自分の目を閉じると、自分のからだの感じは、いかがでしょうか?」「自分の目を閉じると、自分の目の裏側の感じは、いかがでしょうか?(behind your eyes)」「いま、自分のくちびるの感じは、いかがでしょうか?」「いま、椅子に坐っている方は、おしり(sitting bone)の感じは、いかがでしょうか?」「自分のあたまの両耳の間の空間は、いかがでしょうか?」「自分の両脚の間の感じは、いかがでしょうか?」
「自分の両腕が、疲れてきたら、ゆっくりと下に降ろして、休んでください。」
「自分の両腕が、ゆっくりと休むことが出来ましたら、今度は、自分の両手のひらで、ゆっくりと、静かに、自分の両目に近づけて、みることができますか?近づけて、みませんか?」
「自分の両手のひらを自分の目に近づけて、自分の両目を覆うことができますか?静かに、ゆっくりと、覆ってみませんか?」「目を開いていても、目を閉じていても大丈夫です。」
「自分の手のひらで、自分の目を覆うと、いかがでしょうか?」「自分の目を、自分の手のひらで覆うと、暗くなりますか?」「自分が、何かを観ようとしなくても、自分の目は、明るさを感じていますか?暗いですか?明るいですか?いかがでしょうか?」
「次に、しずかに自分の手のひらで、自分の目のまぶたに触れることができますか?そっと触れてみませんか?(simple touch in your hands)」
「自分の目を閉じていても、いま、あなたは、目を閉じたままで、何かを観ようとしていますか?」「自分の目を閉じても、何か観えてきますか?」「いま、呼吸は、いかがでしょうか?」
「自分の両手が疲れてきたら、静かに、ゆっくりと、目から離して、下に降ろしてください。」
「両手を下に降ろして、ゆっくりと、休むことができましたら、次は、いまいるからだの姿勢から、横になって休みたい方は、からだを横にして、休んでください。」「立って、歩きたい方は、少し歩いてみてください。」「そのまま、坐っていたい方は、そのまま坐ったままでも、大丈夫です。」
「いま、ここに、自分は、居ますか?(how is your presence without judgment ?)」
「いま、目を閉じているひとは、自分の目を開いてみると、何が、いま観えてきますか?」
「いま、自分に観えているものが、あれば、それをしっかりと観ることができますか?いかがでしょうか?」「考えないで、ただ観ることができますか?いかがでしょうか?」
「いま、自分の呼吸は、いかがでしょうか?」
「もしも、よろしければ、これまでの体験を、みなさんでシェアーしませんか?」
以上簡単ですが、今日の夜中のステファンさんのSAWのご報告でした。
7月10日 伊藤稔
さて、毎回、「センサリー・アウェアネス」の実習をするときに思いますことは、「今、体の感じはいかがでしょうか?」「呼吸はどのようになっていますか?」という、世話人のインストラクションが、今の自分の“いのち”への気づきをour whole being(身心一如・全一的存在として)の覚知へと導き、今の“いのち”の状態に身体的・感覚的により気づいていく場を与えてくださることなのです。
今回の実習では、伊藤先生のインストラクションにより、それぞれが自分の顔に手を触れながら顔の骨を意識することを試みました。参加者からは次のような感想がありました。
・骨の存在を改めて知った感じがしました。
・私は骨の不思議にとらわれて調べようとしていました。
・左右の眼球の違いに気づいた。ゆったりした場を与えてくださり、有り難かったです。
・自分の骨の硬さに気づいた。お尻の感覚、バランスの違いを感じ、今の自分の状態を観る貴重な時間でした。
・ウォーキングをした後に実習を行いましたが、細胞がひらき始めた感じがしました。
・感じることと自分の気持ちを行き来している自分がいることがわかりました。
伊藤先生からは、「センサリー・アウェアネス」の実習では、よく「not thinking」「just feeling」と言われる、というお話がありました。また、ステファン先生が「Maturity(成熟)」という言葉を使われていることを紹介されました。伊藤先生は、この言葉を「三昧の境地になること」と訳されています。
このように、人現会の研修会や勉強会では、“いのち”のままに在る過程を内観し、our whole being(身心一如・全一的存在として)の“いのち”を覚知していく過程を体験する場が提供されています。もしよろしければ今後の勉強会にご一緒に参加され、このような実習を共に体験していきませんか。
(2)伊東博先生の研究
人現会設立50周年という節目を前に、これまで勉強会で学習してきた伊東博先生の見識やヒューマニズムの哲学と教養を中心に『伊東博先生の研究』としてまとめてみました。今回は、次のような追加資料を添えて、勉強会のメンバーである富塚よりプレゼンをさせていただきました。少し長くなりますがこの資料からの引用です。
「ニュー・カウンセリング」というものが昨今の日本人に問題提起していることは、どのようなことだろうか。
「ニュー・カウンセリング」は伊東先生が人生をかけて求めていかれた、伊東先生ご自身の学習と実践に基づいた教育方法であり健康法である。それは伊東先生がご自身の感覚で求めて究められた「養生の哲学」であり、私たち後進にとっての「養生法(健康法)の道標」ではないだろうか。『身心一如のニュー・カウンセリング』という書には、伊東先生が求めていかれた内容が詳細に述べられているが、伊東先生はこの著書の「まえがき」で次のように述べている。
・ニュー・カウンセリングは、病気にならないような健康な身心をつくろうとするものである。
・健康には、自分の「まわりの人(人びと)」とのかかわりに於いて健康であるということ。また、自然環境、社会、文化など、自分の「まわりのもの」とのかかわりに於ける健康、という局面がある。
・「ニュー・カウンセリング」の原点は、シャーロット・セルヴァーの「センサリー・アウェアネス」であり、それは、東洋で、2500年も前に生まれた、老子や荘子の自然観とまったく一致していることに驚き、これからは東洋で大事にしてきた「自然にかえる」ことが、緊急に必要になっているのではないだろうか。私には、こうした西洋から東洋への回帰という方向が明らかになり、「ニュー・カウンセリング」もこの同じ哲学を踏まえている。
伊東先生は最晩年に、上記三つ目の内容について、「ニュー・カウンセリングの哲学の背後にある哲学」というお話を私たち後進に対してされたのであるが、それは、日本の禅文化を世界に紹介された鈴木 大拙 (1870-1966) 禅師が述べられたことと相通じる見 解である。大拙禅師は、最晩年に書いたエッセイ『東洋的な見方』のなかで、次のように述べている。伊東先生の見解と重複する内容であるので、少し長い引用であるが、その概略を紹介する。
「分割は知性の性格である。まず主と客とを分ける。…主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、何もかもこれから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。すなわち、力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。……二元性を基底にもつ西洋思想には、もとより長所もあれば短所もある。個々特殊の具体的事物を一般化し、概念化し、抽象化する、これが長所である。これを日常生活の上に利用すると、すなわち工業化すると、大量生産となる。大量生産はすべてを普遍化し、平均にする。生産費が安くなり、そのうえ労力が省ける。しかし、この長所によって、その短所が補足せられるかは疑問である。……」
「一口にいうと“自然にかえれ”である。“自然”の再認識である。日本的なるものを通じて“自然”の何ものたるかを“自覚”するのである。“日本再発見”の最も根本的なものは、ここに尽きている。……
“自然”という言葉がはじめて用いられたのは、老子の『道徳経』で“道は自然にる”とある。この“自然”は“らる”の義で、仏教者のいう“”である。他から何らの拘束を受けず、自分本具のものを、そのままにしておく、あるいはそのままではたらくの義である。松は松のごとく、竹は竹のごとく、松と竹と、各自にその法位に住するの義である。
仏教に“真如”という語がある。これを“自然”と訳しておいてもよかったと思う。真如には如が動いておる。然りも如であるが、のタトハタ-は如の抽象名詞であるところから、真の如ということになった。この如の思想が後来次第に発展して来て、唐代には、とかなどという俗語に置き換えられて、中国特有のものになった。いずれも“自然”のことである。
中国の仏教者間では、“自然”の静的なるに飽き足らず“自由”の動的なるを喜んで使用するようになった。“自主自在”“自由自在”など、最も表現的なるのが好かれた。(“自由”も、近時一般にフリーダムまたはリバティの義に使われるが、本来の意義と大いに(おおきなへだたり)あることを認識しておかねばならぬ。)
西洋のネイチャーは二元的で“人”と対峙する。相克する、どちらかが勝たなくてはならぬ。東洋の“自然”は“人”を入れておる。離れるのは“人”の方からである。“自然”にそむくから、ら倒れて行く。それで自分を全うせんとするには、“自然”に帰るより外ない。帰るというのは元の一になるという義である。
“自然”の自は他と対峙の自ではない、自他の対峙を超克した自である。主客相対の世界での“自然”ではない。そこに東洋の道がある。この道を再認識するのが、日本人にとっては、日本の再発見である。“自然にかえれ!”である。」 (『東洋的な見方』岩波文庫より)
この禅師の見識に立脚すれば、二元的世界を基本とする西洋思想では、ウクライナでの戦争のようなことは起こるべくして起きてしまうのだろうと思われる。令和4年7月に安部元総理大臣が銃撃された事件をはじめ、ヘイトスピーチ、いじめや虐待など、他者を排除したり差別したり攻撃したりする日本人の昨今の現実の姿を捉えるとき、伊東先生が「自然にかえろう」「東洋にかえろう」と叫ばれたことが今日の日本人にとって実に重要な課題であることが了解されるのである。伊東先生は、ワークショップでの実践を通して、「身心一如という現実を思い知らされる。」と繰り返し述べられたが、この“一如”の感覚を取り戻すことこそが「自然にかえる」ということであり、鈴木大拙禅師が提起されたことと重なるのである。
大拙禅師は、昭和22年に当時の昭和天皇のために講話された内容を『仏教の大意』という書にまとめていられるが、このなかで「分析や分別の世界は“我”の一念、合理性で支配されている。しかし、私たちには、この知性的世界の背後にある、無分別と無差別の霊性的世界がある。この人間に内在する霊性的自覚(直覚)こそが仏教の大意である。」と述べている。伊東先生は大拙禅師と生きた時代や言葉は違うけれども、伊東先生が究めていかれた「ニュー・カウンセリング」もまた「自然にかえる」「東洋にかえる」ことを目指している。伊東先生が最晩年に「あまりにも大問題なので、誰もにわかには賛成してくれないと思う。しかし、本当に言いたかったことである。」と述べられたこの主張は、鈴木大拙禅師の見識同様に、今日の私たち日本人にとって実に貴重な提案だったのである。
では、「自然にかえる」あるいは「東洋にかえる」ことを目指す「ニュー・カウンセリング」とはどのようなものか、その主な哲学と内容をごく簡単に要約すると、次のようになるだろう。
- おのずから成長しようとする自然のハタラキ(自然の力)を、「身体的・感覚的な気づき」を通して学んでいくこと
- “坐る・立つ・ねる・歩く”を中心にした“人間の基本”や、私たちの健康にとって重要な“リズムやバランス”について経験を通じて学んでいくこと
- 自分に与えられた“いのち”に内在する“美の意識や感性・共通感覚”に目覚め、人間関係のみならず、環境・文化・芸術・社会などで起こっていることにより気づいていくこと、教養と文化を身につけていくこと
最後に、繰り返しになるが、伊東博先生が述べられた「アウェアネス」や「リズムとバランス」等の見識について改めて取り上げたい。
「ニュー・カウンセリングは、究極的には“アウェアネス”を目指しているのだが、その“アウェアネス”は、単に個人内部の個人的な成長に限定されるものではない。生きている人間が、普通にたえず接触している環境・文化・社会にも目を配っており、あやしげなものには“用心して”おり、美醜に対して敏感であり、文化と教養にひらかれている、そんな“アウェアネス”を私(伊東)は想定している。感性や美意識は、“アウェアネス”の重要な表現なのである。」
「ニュー・カウンセリングは、漱石が“大いに味わいがある”と述べた“東洋流の学問”に帰りたいと思っている。」
「坐る・立つ・ねる・歩くというニュー・カウンセリングの基本的な実習は、まさに一般の日本人に、このリズムとバランスを取り戻したいという、まことに大それた、不遜な希望に発しているのである。それは単に、からだのリズムとか、からだのバランスだとかいうことではない、生き方全体の問題なのである。…私たちは生涯、バランスの学習を続けなければならないのである。リズムもバランスも身心一如のところにあるのだが、リズムはひとつのバランスであり、バランスはひとつのリズムであるだろう。」
(『身心一如のニュー・カウンセリング』より)
私たちの会では、「ニュー・カウンセリング」と名づけられた、伊東博先生が追求され明らかにされた内容やその哲学、教育方法や健康法(養生法)について、今日の日本人や日本社会に対して改めて問題提起をしていきたいと考えている。また、私たちは、伊東先生が求められたような精神的生命(志)を受け継ぎ、それをそれぞれの人生や自分に与えられたその時々の場でめていきたいと願っている。具体的には、勉強会や研修会を通して共に学びながらそれぞれの気づきや見識を深め、その具体的な学習の様子や資料を、ホームページ等を通して社会に対して発信していこうとしているのである。私たちは今、伊東先生によって「ニュー・カウンセリング」と名づけられ明らかになった、その哲学や健康法を、今日の日本人が抱える深刻な問題の解決に資する重要なメッセージとして改めて提案をしていきたい。そして、それぞれの日本人がその人なりに、美の意識や感性、共通感覚、また教養と文化を身につけていくことを願いながら、各自が学習者としての歩みを地道に続けていきたいと思っているのである。
さて、研修会のなかで出された主な意見は、次のようなものであり、これらの意見を踏まえて、今後の人現会や研修会のあり方を共に検討していかれたらと考えています。
勉強会はご都合のつく時の参加で結構ですので、参加をご希望の方は御連絡ください。勉強会のメンバーになっていただければ、事務局の小池治道先生や伊藤稔会長、あるいは研修会担当の富塚より必要な情報をお届けします。よろしければ「人間らしさを回復する」「“いのち”の自然にかえる」「東洋のあり方にかえる」等を共に現実化する学習集団としての勉強会にぜひご参加ください。
人現会よりお知らせとお願い
○別紙のとおり、「人現会設立50周年に向けてのアンケート」を実施します。会員の皆様の声を伺えることを何より願っております。
なお、会員の皆様からいただいたご意見を基に、今後の人現会のあり方や会の名称等について役員会で検討いたします。その上で原案を作成し会員の皆様へご提案いたします。そして、令和5年7月23日(日)の設立50周年記念総会にて決定していく予定です。ご協力の程、よろしくお願い申し上げます。
○会費納入のお知らせ、および会員名簿の項目確認につきまして、別紙のようにお願い申し上げます。なお、名簿項目の確認につきましては、担当の藤田美智子宛にお願いいたします。(FAXあるいはメールにて)