「ニュー・カウンセリング」の哲学
伊東博先生『身心一如のニュー・カウンセリング』語録(1)
令和2年12月19日 人現会勉強会資料より
1.ニュー・カウンセリングとは何か
―健康であることー
- 「ニュー・カウンセリング」は、例えて言えば、病気になってからお医者さんに行くのではなく、病気にならないような健康な身心をつくろうとするものである。強いて言えば、予防医学であり、具体的には、健康という言葉が最も似合うように思う。p20
- “感じる”ところに戻って、“自分にかえる”ことから始まる。この「ニュー・カウンセリング」の実習体験を通して、自分の身心(いのち)にどのような変化が起こるのかを、静かな気持ちで内観する。
- “バランスのとれた休息状態”で、“いのち”の瞑想をする。
- 私たちの日常の動作・行動について勉強し直す、ということを感じたり、その体験を通して、自分自身について、これまでの自分の態度などについて、気づきを得る機会が生まれたりする。p16
- すべての実習は、感ずることなしには行われない。 すべての実習は、からだの動きを伴わないものはない。 すべての実習は、自己への気づきを刺激しないものはない。 すべての実習では、人やものとのかかわりがいつでもある。人がそこにいること自体でさえも一つの表現である。p24
- “かかわり”というのは人間存在の基本的な次元であり、“かかわり”や関係をつくれる人を目指している。つまり、人やもの、文化や社会や自己との間で、“与えること”と“受け取ること”という行為があるということ、その“かかわり”の本質についての発見がある。p25
- 言語や文章(あるいは文学)の教育、あるいはまた、国語教育は危機に瀕している。人の話を“聴く”“理解する”、文学や美術を“理解し”“鑑賞する”という、受け身の方向が、私たちの前から姿を消しつつある。そこで、「ニュー・カウンセリング」では、“受け取ること”“鑑賞”という実習の場を提供する。感性を失った日本人に、“美の教育”がこれほど強く要求されている時代はかつてなかったであろうと思われる。p26
2.「ニュー・カウンセリング」の原点
―西洋から東洋への回帰―
- 「ニュー・カウンセリング」の出発点である「センサリー・アウェアネス」は、“坐る・立つ・ねる・歩く”を中心にして、文明生活のなかで人間の失ってきた自然を回復することが、その中心テーマであり、「センサリー・アウェアネス」の原点に返ってみれば、それが、東洋で、2500年も前に生まれた、老子や荘子の自然観とまったく一致していることに、私は驚いてしまった。…環境の自然と人間の自然の崩壊を導いてきた西洋文明の危険な方向に早く気づいて、これからは東洋で大事にしてきた自然にかえることが、緊急に必要になっているのではないだろうか。「センサリー・アウェアネス」のはらんでいる哲学に接しているうちに、私には、こうした西洋から東洋への回帰という方向がだんだんと明らかになってきた。(まえがき)
- 「ニュー・カウンセリング」は、シャーロット・セルヴァーの「センサリー・アウェアネス」の哲学を踏まえて受け継いでいる。p20
- 西洋と東洋の思想が一体となることができれば、もっとヒューマニスティックな“人間学”ができるのではないだろうか。そうした観点から、「ニュー・カウンセリング」の理論は、できるだけ東洋思想あるいは日本の思想によって説明するように試みた。いわば、“日本のカウンセリング”、あるいは“東洋のカウンセリング”という姿が見えてくることを願っているのである。p4
3. 心身二元論の西洋哲学からの脱却
―人間の全体的理解―
- 『センサリー・アウェアネス』の著者チャールズ・ブルックスは、「心身の分裂が人類を破滅させるような事実であることを疑う人は、一人もいないでしょう。」と、たいへん楽観的なことを述べているのだが、事実は、その危険性に気づいている人は一人もいないでしょう、と言った方が現実的であろう。p30
- いまの日本人のほとんどの世代が、西洋思想のパラダイムのなかに強く、深く閉じ込められているように思われる。いま、そうしたパラダイムを抜け出さないと、現代心理学は、生きている人間を正当に理解することができないと思うのである。p3
- 心身分裂の哲学は、ギリシャ以来の西洋哲学の観点である。わが国でも、とくに明治以降、こうした西洋の哲学あるいは人間観が急速に輸入されて、ほぼ百年の間に、私たち日本人はすっかり西洋哲学と同じように人間をみるようになってしまったように思うのである。p32
- “全体的人間”がすぐれた教育の目標として礼賛されているということは、実際には人間を全体としてみるという実践がごく稀であったからにほかならない。そうしてみれば、心身二元論を強要した西洋哲学は、現実的には科学の発展などを通して人類に利便をもたらした面はあるとしても、反面においては、人間の正当な(全体的)理解を不可能にしたという点で、人類を不幸に陥れた元凶であると言わざるを得ない。p38
- 西洋文明は、地球と人類を滅ぼそうとしている。漱石の一言一言が予言めいて聞こえる。もうアルコール中毒から抜けられないのかもしれない。あまりにも大問題なので、だれもにわかには賛成してくれないと思う。しかし、ほんとうに言いたかったことは、こんなことでした。(1999.7.21 伊東博『「ニュー・カウンセリングの哲学」の背後にある哲学』)
4.「身心一如」の人間観
―東洋の発想―
- 西洋思想におけるような「身体の軽蔑」「精神の優位」という歴史をもたなかった東洋においては、「身心一如」ということは、きわめて自然なことであったと思う。その意味では、東洋の人々は、西洋哲学の洗礼を受けるまでは、きわめて自然な人間観をもち、それ故に、より人間的であることができたのであろうと思う。…いま現代の日本においては、哲学においても心理学においても、東洋の発想は失われて、西洋風の心身二元論が主流を占めてきたので、事情はアメリカと同じであって、「身心一如」の発想はなかなか理解されにくいところである。p35
- 道元の「身と心とをわくことなし」(『正法眼蔵』辨道話)という断言的な言い方は、時間と空間を超えて、私たちに迫ってくるような感じがするのである。p35
- 私は、「ニュー・カウンセリング」の実習のなかで、“身心は一如”(身心はいつでも一緒に、同時に機能していること)なのだということを、いろいろな場面に体験することが多くなった。p35
5.「ニュー・カウンセリング」の観点
―身心の構造や機能に適合した動き方―
- 「ニュー・カウンセリング」では、動くからだ、生きて動いているからだ、からだの動きが重要な焦点なのである。p32
- 哲学は人間の学であるならば、からだを無視すること、空間的存在としての(動く)人間を無視することは哲学の怠慢と言うべきであろう。p39
- 人間にはその身心の構造や機能に適合した動き方がある。その動き方から外れると故障や障害が起こるのである。p39
- 動きの基本である「坐る・立つ・ねる・歩く」の動き方に注目した健康法はほとんどない。…「動き方」というと語弊があるかもしれない。動かす技術、動かし方なのではない。…「おのずからそうであるところ(自然)に従って手を加えない」という意味である。p39
- オーストラリアのマシアス・アレクサンダーは、その人間の自然に伸びる方向(おのずからそうであるところ)、人間のほんらい伸びていく四つの方向を、みずからの経験と探究によって、ほとんど「発見」したのだと言ってもよい。p39
6.「ニュー・カウンセリング」がめざす「アウェアネス」とはどのようなものか
- 「アウェアネス」は、あらゆる心理療法、あらゆるカウンセリングの核心的なプロセスである。本人の身心の状態に変化が起こることを「アウェアネス」と呼んでもよいだろう。…もっと身体的・感覚的であるところを、私は「アウェアネス」と呼びたい。もっと身体的・感覚的なアウェアネスが起こることが「ニュー・カウンセリング」の究極の目標である。ゲシュタルト療法のフレデリック・パールズが述べているように、「アウェアネス」それ自体が、それだけで、そのままで、治癒的であり得るのである。…この「アウェアネス」を問題にしないで、行動の変化をもたらそうとするときには、そこに人間が人間を操作することが起こり、それは人間の尊厳を脅かす恐れをもってくるであろう。p4
- 「アウェアネス」には、「見えてくる」「聞こえてくる」という「受け身」の性質がある。『荘子』に云う“気なるもの”は自分を虚しくして待っているものだという。道元禅師は、自分の方から萬法を明らかにしようとするのは迷いであり、萬法のほうからやってきて、自分が明らかになるのが悟りであると謂う。「アウェアネス」も同じように「受け身」のものである。p44
- “悟り”あるいは「アウェアネス」が起こっているのに、本人が覚知していない場合があることは、私たちが承知していてもよいであろう。p46
- 「アウェアネス」が高度に深まるときには、それは分析したり、分割したりすることができない状態になる。「アウェアネス」というものは、分析しても、分割してもよくわからないものであって、全体的、統合的にみるより他に理解しようがないものだ、と言った方がよいであろう。p50私は、文化や社会に対する「アウェアネス」の“広がり”をみたいと思っている。p51
- 「アウェアネス」には、もともと“用心する”“注意する”“気をつける”などという意味が含まれていた。社会だとか、文化だとか、そうした環境およびそのなかに起こる出来事に対しても、それに受け身的に束縛されたり感動したりするだけでなく、積極的にこちらからそれに向かっていったり、警戒したり、用心したりする、そんな意味を「アウェアネス」は持っている。p52
- 「ニュー・カウンセリング」は、究極的には、「アウェアネス」を目指しているのだが、その「アウェアネス」は、単に個人内部の、個人的な成長に限定されるものではない。生きている人間が、普通にたえず接触している環境、文化、社会にも目を配っており、あやしげなものには「用心して」おり、美醜に対して敏感であり、文化と教養にひらかれている、そんな「アウェアネス」を、私は、想定している。感性や美意識は、「アウェアネス」の重要な表現なのである。p55
7.「与えること・受け取ること」
―美の意識、感性、共通感覚(コモンセンス)―
- 多くの問題を抱えている学校、そして崩壊の危機が叫ばれる日本の社会に、また感性を失った日本人に、美の教育がこれほど強く要求されている時代は、かつてなかったであろうと思うのである。その美の教育は、「受け取ること」「鑑賞」から始まるであろう。p26
- 生きている人間は、他の人びとと人間関係をもつばかりではなく、社会の中で、ある文化の中で生きているのであり、そうした社会の、たとえば規則、習慣、あるいは芸術・文化などは、私たちを抑圧するばかりではなく、そこから、美とか、愛とか、共通感覚などの価値的なものを受け取り、そしてまた、そうした価値の創造に貢献しよう(与える)としているのである。ここでも、私たちは、社会や文化との間に、「与える・受け取る」という相互方向的なかかわりをもっているのである。そうしたかかわりによって、人間は、美の意識、感性、共通感覚(コモンセンス)を身につけていくのだと思う。p53
- とくにわが国では、近年、怪しげな宗教が出てきたり、残虐な犯罪が頻発したり、詐欺に近いセールスや、ほんものの大がかりな詐欺犯罪が氾濫していて、善良な人びとが、それにいとも簡単にひっかかっているのを見ると、美の意識、感性、共通感覚が現代の日本人に欠けていることを痛感せざるを得ない。おそらく、日本人の自己喪失の状況が深く浸透してしまったのであろう。それを生み出したのは、科学万能主義(技術の偏重)と、経済発展至上主義(金儲け主義)であるだろう。美の意識、感性、共通感覚の目覚めるような社会体制・教育体制が今ほど望まれる時代はないであろう。
- 一方において、人間関係を恐れて自分のなかに引きこもってしまう人があり、経済の異常な発展に伴って、自分のことしか考えない利己主義者、甘やかされて責任を負えなくなった自由主義者が、今、日本には氾濫している。日本人と日本の社会が危険な症状を呈していることに、多くの人は疑いをもたないであろう。何か大事なことが大きく抜け落ちているに違いない。その大きく欠けているものの根源が、感性であり、美の意識であり、コモンセンスなのだろう、と私は思っている。
- あやしげなものに対して用心しているばかりではなく、美醜をかぎ分け、適不適を見分けるような知識、見識、感覚が人びとに必要なのであり、そのほかに「見聞の広い、物知りの」人間、それはきっと教養と文化を身につけた人であると思うが、そんな人間がこれからの世の中に生きてほしい人間なのではないだろうか。p53